先日事務所で仕事をしていたら、突然の停電。ブレーカーが落ちたのかと思い、周りをみたらどうやら周囲一体停電のようだった。事務所は、パリの真ん中だし、インドの山奥ならまだしも、首都でもこんなことがあるんだなと驚いた。
この時に思い出したことがある。以前トイレが故障し、水道工事を呼んだときのことだ。工事の人は、家の水道の元栓が見つけられず、地下のカーブへ行けないかと聞かれた。うちのアパートは50戸ほどが入居する、築200年ぐらいの建物で、各戸1つカーブがついている。物置きとして使っているカーブにはいろんなケーブルや配管が張り巡らされている。
案内したところ、水道管らしき物を見つけることができたのだが、なんと彼はその元栓をすべて閉め始めたのだ。確かにトイレは直して欲しいが、突然前置きもなく自分のトイレの修理のために、アパートの住民の全員に断水を強いるのは気が引けたし、もう少し探そうと提案したのだが、彼は「時間がないからこれでいい」といってすべての元栓を閉めてしまった。もしシャワーを浴びている途中の住民がいたら驚いただろうし、事情を知ったならかなり怒っただろう。しかし工事にきた彼にとっては、早く終わらせることが第一だったようだ。
似たようなことは、スーパーのレジでもよく起こる。長い列になっていても、店員に延々説教しているおばさん。後ろで待っている人のことは気にしない。また、晴れた日に道を歩いていると、なぜか上から水が落ちてくる。上を見るとベランダの植木に水をあげている。下の人に水がかかろうが気にしない。フランス人は自分の用事が最優先。自分の世界にいる人以外への配慮をしない。
こういうときに、日本人とフランス人の「公共」に対する意識の差を感じる。日本人は公共の場に出ると周囲との協調を最優先に考え、自己を犠牲にする。たとえば日本なら水道工事の人は、無断でアパート全体の断水をすることはないだろうし、スーパーのレジでも長い列になっていたら、文句があっても今言わなくてもいいかなと我慢する。そして、ベランダの花に水やりをする時にははまず下を確認するだろう。でもフランス人はそうしない。たとえば、今キスしたいと思えば、どこでだってキスをする。
日本では電車の中で化粧をしたり、電話をしたり、食べ物を食べることはよくないこととされている。日本では見たことがないが、もちろんキスをする事もよくない事に入るだろう。「公」の場において「私」の都合を優先させてはいけないというのが日本的な考え方だからだ。ではなぜこのように日本人は思うのだろうか?私は、ここには「間」の概念というものが関係しているのではないかと思う。
「間」とは空間と時間の両方を含む日本独特の概念だ。日本人はtimeとspaceを分けずに感じている。 例えば、フランスのレストランに個室はまずない。ミシュランの星付きであっても、個室はない場合がほとんどで、あってもせいぜい1部屋である。これはフランス人には、個室でなくても隣の話が聞こえないからではないだろうか?彼らは日本人ほど、隣の席の話を聞いていないように感じるのだ。
例えば、日本で寿司屋のカウンターに座ったとする。隣のお客さんが頼んでいるものが美味しそうだったから「大将!こっちもお願い!」と声をかけたのがきっかけで、隣の人と会話が弾んだ、なんてことはよくある。これはバーでも同じだ。同じ場にたまたま居合わせた人が混ざっていくことが、日本ではしばしばあるのだが、フランスでは見たことがない。
つまり、日本人はその「場」にいる人と同じ「時間」を過ごしていると感じている。しかしフランス人は同じ「場」にいたとしても、夫々全く違う「時間」を生きていると感じている。だからフランス人は、電車で食べ物を食べようが、電話をしようが、キスをしようが関係ないと思うのだろう。
もう一つ、公共に対する考え方で日本と大きく違うと感じるのは、無謬性についてだ。「無謬性」とは決して間違いがないということだが、日本では公共のサービスは「無謬性」が確保されていなければならないという考え方が非常に強い。港区や渋谷区で突然停電などということはまず起きないだろうし、もし起きたとしたらちょっとした事件だ。日本では携帯電話の電波障害が起きたり、通信回線がパンクすると大問題になって、経営者が謝罪会見を行なったりする。これは公共サービスたるもの「無謬」でなければいけない、と多くの人が考えているからだろう。この「無謬」は、均一化されコントロールされた労働の中から生まれ、多くの人が同じような価値観で監視していることで成り立っている。
パリでは携帯の電波が入らないこともよくあるし、電車も遅れるし、よく止まる。それでもそんなに問題なくみんな暮らしている。それは、人間なんだからそんなに完璧じゃないよ、というユルさといえばそれまでなのだが、いろんな人がいるんだから、「全部計算通りにはならないよ」とゆるし合うゆとりのようにも思える。そしてエラーや多様性を許容するゆとりをもって、生きている。
フランスにいて感じるのは、いろんな人がいて、いろんな価値観があっていい、ということ。日本はその真逆だ。
フランスにいても日本のニュースはネットなどで見ることができるのだが、最近驚いたのは女性手帳の件。こういうことを本気で政府が言うのだとしたらちょっと気持ち悪いと思ってしまった。本当に画一的で、いまの時代の多様な生活スタイルを、どう政府がバックアップして行くのかが重要なことであるはずなのに、日本ではまるで逆のことをしている。古くてもう役に立たないテンプレートに無理矢理押込めたがっているように見える。官僚は、いつまで「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」的な家族像が複製されていくと考えているのだろうか?
フランスでは、結婚とは別に「PACS」という制度があって、付き合い以上結婚未満のカップルの在り方を認めている。そして、今月同性愛の結婚も認められる法案も通った。 そもそもフランスのオランド大統領は結婚もしておらず、PACSもしていない。日本政府は6月に来日するこの未婚の大統領のお相手を、ファーストレディとして晩餐会に招待するのは問題にならないかということが話し合われたようだ。日本で多様性を当たり前に認めることができるようになるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。