仕事の故郷は岩手県
私はアサツーディ・ケイに勤務して32年、岩手、東北の支社長を経て04年に東京本社に異動しました。田舎の広告会社勤務時代とは違い、ある意味「半沢直樹」状態の本社人間関係や都会での暮らしに馴染みづらく、退職への道を選択する原因になりました。
現職中は、営業というよりイベント企画が多く、特に岩手県の大型イベントのプロデューサーを務めてきました。「三陸海の博覧会」、宮澤賢治生誕100年事業、第23回全国菓子大博覧会、そして山形県米沢市で行われた「上杉鷹山生誕250年事業」の総合プロデューサーなど、数多くのイベントを手掛けてきました。
ある意味、岩手が私の故郷であり、県庁などにも多くの友人がおり「田舎へ帰ろう」と決心。07年の退職後、すぐに県庁外郭団体のコーディネーターとして転職、その後県の中核コーディネーターとして現在に至っています。三陸沿岸には陸前高田市から種市に至るまで多くの知人、友人がおり極めて居心地の良い環境への転職となりました。その友人達数名が、まさか津波の犠牲になるとは当然想定外のことです。
その後、岩手県から依頼され、三陸鉄道の立て直し、企画、話題発信、沿岸地域の観光力強化など、欲張りなミッションを与えられ、三陸鉄道の本社にデスクを置くことになりました。自己紹介が長くなってすみません。それでは本題に移ります。
ドラマ化の話、まさかの朝の連ドラ
2011年12月。沿岸被災地は再び訪れる冬に向かい、3.11を思い出す殺伐とした空気が流れていました。瓦礫撤去も進まず、全国の受け入れ先から拒否される事態が相次いだ頃でもあります。
岩手沿岸の中心にあたる山田町では、積み上げられた瓦礫から自然発火、消防自動車が駆け付ける事件も発生し、住民の不安も高まっていました。応急仮設住宅に入居が始まり、その粗末な部屋への不満も続出。長く厳しい冬に向かう季節でした。
メディア各社は避難所から応急仮設住宅への入居や、それにまつわる震災話題の取材に追われ、「震災から一年」へ向かっていました。
三陸鉄道は、震災から5日目で宮古から田老まで動かし、その後小本駅まで復活していました。
岩手県沿岸全体に津波被害の爪痕がまだまだ残る中、比較的被害の少なかった県北部には工事関係者も少なく、街の活気が停滞気味。宮古から南の南部エリアは甚大な被害の復旧工事が急ピッチで行われ、宿泊施設はどこもかしこも工事関係者で埋められていました。
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