高度なクリエーションには、つまり、圧倒的なところまで到達するには、脳内か体内かよくわからないけれど、なんらかの狂気の活躍が不可欠だと思う。
ミシェル・フーコーがエイズのため57歳で亡くなったのは、1984年。葬儀では、ジル・ドゥルーズが、フーコー晩年の重要な著作『性の歴史』第2巻『快楽の活用』の序文の一部を朗読した。
「今日、哲学とはいったい何であろうか。(略)いかに、かつどの程度違った風に考えることが可能か知ろうと真剣に努めることが哲学でないとしたら、哲学の本質はいったい何にあるというのだろう。」
「違った風に考えること」
英語だと、Think differentか。
どこかで聞いたことがあるぞ。
「狂気」のフランス語は、folie。言うまでもなく、foolishと同じ語源である。プラトンが『パイドロス』を書いたのが紀元前370年頃。ものを考え、創ろうとする人たちは、大昔から、本能的に「狂気」の必要性を感じ、なんとか戦略的に取り込もうと希求してきたのだ。Creativityは、その歴史だと言ってもいいのではないか。文明が「狂気」を排除しようとする歴史だったのと真逆に。
創ったものが正しいだけでは、
理性の力だけでは、
想像の範囲内のクリエーションだけでは、
そもそも自分が満足できるものができない。当然、多くの人を動かすものはできない。
他の人とちがう風に考え続ける。
他の人とちがう意見を持つ。
他の人がやらないことをやり続ける。
他の人と同じであることを嫌悪する。
この態度は、実は、ものすごく面倒で困難なのである。
まず、理解されない、という最初の壁があるし。
けれど、他にやり方は、たぶん、ないのだ。
「狂気」は僕たちの強い味方である。
それは、代替不可能な極めて個人的な何ものかによって構成されている。
しかもそれは結果的に、自分が何者なのかを、明示してくれる。
もし自分および周辺に存在しているのなら、平準化などという退屈なことはしない方がいい。
プラトン、漱石、フーコー、ジョブズ。
彼らは、とても理性的論理的な人々だったけれど、
だからこそよくわかっていた。
理性だけでは足りないのだ。
どこか狂気の力を借りなければ、
高いところへいけないことを。
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今回でおしまいです。
深く深く感謝します。
※連載『脳のなかの金魚』は今回で終了となります。
ご愛読ありがとうございました。(編集部)
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