【前回の記事「「惜しい!ネガティブ表現——言葉選びに《フラットな思いやり》を」はこちら】
川崎市の住宅地の中、ごくありふれた公園内の遊具の脇にある掲示[写真左]。今月8日、朝日新聞(東京本社版2面)が「子に冷淡/育児世帯減 遊び声は『騒音』」という批判的な見出しと共に紹介し、議論を呼びました。おそらく、子ども達の喚声を苦痛に感じた近隣住民さんが匿名で貼り出した物でしょう。
この記事の数日後、私は現場を見に行きました。掲示を守って、黙々とすべり台やブランコに乗り、声を潜めて鬼ごっこをする「よいこ」―――の姿があるかと思いきや、曇天で猛暑も一服した夏休みの昼下がり、公園は無人でもっと完璧に静まり返っていました(たまたまかもしれませんが)。
役所としては、「元気に遊ばせろ」vs「静かにさせろ」という真っ向対立する2つの住民要求の板挟みになって、この無断掲示を許可も撤去もせず、黙認してきたようです。かつて育休パパ時代、近所の公園で我が子をのびのび遊ばせてきた下村としては、この文面には言いたい事が山ほどありますが、ここはそういう趣旨のコーナーではないので、《表現方法》の話に徹します。
―――前回は、「多数派が少数派にメッセージを発する時の言葉選び」について考えました。今回は、勢力の大小に関係なく、「立場によって見解が対立するメッセージを、なるべく反発を掻き立てずに発信する方法」を考えましょう。誰だって、自分の主張を「なるべくケンカにならないよう穏便に相手に伝え、実現したい」というニーズは常にありますもんね。
キーワードは、《負荷の分散》です。相手に何かを禁じたり規制したりという我慢(=負荷)を求めるメッセージを伝える時には、その立場の人だけに負荷が集中するような表現は、なるべく避けましょう。「なぜ自分だけが…」と反発を抱かれ、かえって対立のトリガーを引いてしまうからです。その代わりに、「色々な人がそれぞれ負荷を分担しているんだな」と想起できるような表現の方が、「ならば私も応分に我慢しよう」という気持ちになりやすく、メッセージの訴求力は高まります。
例えば皆さんご存じ、駅のトイレの中の掲示。昔は単刀直入に「トイレを汚さないで下さい」といった文言が普通でしたが、今や「きれいに使ってくれてありがとう」がずいぶん普及しました。この方が、美化に協力したくなるのは何故でしょう? それは、単に感謝されて気分がいいからではなく、前者が《自分(利用者)だけに負荷を掛けてくる表現》なのに対し、後者は《日頃負荷を背負っている清掃者の存在を無意識レベルで想起できる表現》だからです。「じゃあ、自分もきれいに使おう」という気持ちに誘導されるわけです。
で、上記[写真左]のケース。負荷は子ども達だけに課せられており、これでは若い親たちが「そんな…」と抵抗感を抱いても仕方ありません。たとえこの掲示の作者が、公園の子どもの大声にイラ立ってる人だとしても、敢えて一歩引いて[写真右/合成]のようにしてみてはどうでしょう?(このケースでは子どもは解放して)各立場の大人たちで負荷を分担し合おう、と呼び掛ける方が、より問題の改善に近付く現実的発信にならないでしょうか。
電車内とか病院の待合室なら、子どもにも負荷を課す(「静かに」と厳しくしつける)のは当然ですが、公園は思い切り遊ぶための場所です。近隣住民も、ある程度の受忍はしましょう。そうは言っても、常識的限度はありますから、そこは付き添いの保護者の方が、気配りをお願いします。――そうやって要請を並べることで、「あなただけに負荷を求めてるんじゃありませんよ」と示し、反発を緩和する。アンパンマンとしても、それが本望ではないでしょうか?
以下、オマケ。
事の本質を見抜くには、《スポットライトの外側の暗がり部分に目を向けよ》というコツがあります。それを当てはめて、今回の公園で上記の掲示の周囲を見回してみると―――なんと小さな区画の中に、実はこんなに禁止看板が並んでいました。
一辺わずか20mほどの狭い広場をグルッと取り囲む、立て看板や貼り紙が9枚。その外側に点在する4枚と合わせ、計13枚の“べからず”群。(内訳は、役所の掲示が9枚/制作者不明が4枚) 小さな広場の真ん中に立つと、周囲360°、全ての負荷が自分に集中して来る圧迫感で、本当に“ザ・禁止社会”という映画セットの中にでもいるような感覚に陥りました。
そういうプレッシャーをわざと狙っているのなら、この掲示の乱立は、かなり効果的な表現手法です。逆に、公園の解放感も保ちたいのなら、これは「惜しい」を超えて、異様です。現代日本の都市部に暮らす子ども達を包囲する、大人たちの神経質な眼差しの、これは今や平均値なのでしょうか?