ふつうの日本人の感覚からすると、人間の多様性を認めるという点では、アメリカは先進国という印象がある。他人と同じであることをよしとする日本のような国とは真逆の空気を持つ国だと。アメリカは、デモクラシーのひとつの見本であり、みんながそれぞれ異なる意見を持つことに価値を置く国であると。他人と同じであることを暗黙の裡に要求する傾向のある日本とはそこがちがうと。日本だと最近では、「同調圧力」などというだめな単語もある。
アメリカはすべての他者を受け入れるフェアネスを重要なプリンシプルにしている。世界中からチャンスを求めて人が集まり、それがアメリカの力の源泉になっている。いろんな意見のあるところだと思うが、このフェアネスとオープンこそが軍事力、経済力なんかより、アメリカ最大の強さだと僕などは思う。なぜなら、軍事力、経済力は量であり一時的なものであり、フェアネス、オープンなど抽象的価値は基本永遠だから。
事例に挙げたスピーチの中に共通して出てきた“different”という言葉が、決定的に重要だと思われる。他人とちがうこと、変であること(weird)を、社会がよいことと考えるか、悪いことと考えるか。はたまた、どっちでもいいじゃんそんなことと考えるか。
言うまでもなく3つ目がいちばん洗練されている。
1960年代後半から70年代。
寺山修司が実験的な演劇を連発していた。例えば、役者がふつうの家を突如訪問して、そこの住民を演者として芝居に突然参加させたり、鞍馬天狗とか月光仮面とかフランケンシュタインとかドラキュラとかを街に突然出現させて、それに対する市民の反応を芝居にするとか、ま、そんなことを。大昔のことなので記憶が曖昧だが、それによって騒乱罪だかなんだかで逮捕されたりされなかったりしていたと思う。
彼は、インタヴューに答えてこう発言している。
「世の中は、街の中に突然フランケンシュタインが現れることを、迷惑だと思う人と面白いと思う人の2種類でできている」。フランケンシュタインだったか、ドン・キホーテだったか、ドラキュラだったかよく覚えてないけれど、要は、その手のものである。
これをおもしろいと思う人が少ないと、やっぱり世界はつまらない。ましてや、けしからん、許せんとまで思う人が多いと、ますます世界はつまらない。最近だと、それのKPIは何だと言い出す人とか現れて、ますます。
そういえば、佐々木宏さんが、もう20年くらい前、近くにいたCMプランナー3人をつかまえて、「岡(康道)はいい奴だ。(佐藤)雅彦はいやな奴だ(アタマよすぎるという意味です、おそらく)。古川はヘンな奴だ。」という何の役にも立たないフレーズを本人だけ気に入って連発していた。
端的に言えば、自分とちがう類の、ちがう意見の、ちがう好みの人の存在を許容できるかどうか。実はこれ、21世紀前半のいちばん重要なイッシューではないかと思うのだ。
そう問えば、誰しもイエスと答える。
自らを、不寛容と認めることは不寛容な人ほどできない。なぜなら、不寛容は、客観性の不在から多くの場合立ち現れるからである。そして、さらに始末の悪いことに、疑いを知らぬ正義感から。
本居宣長が規定した日本人の「神」の概念とは、何かとてつもなく特別な力を持ったものということで、神は、人でもいいし、自然でも、動物でも、植物でも、場所でも、食べ物でもいい。どんな形をとってもいい。隣のおばあちゃんでも、田んぼでも、タヌキでも、ススキでも、台所でも、米粒でも。要は、日本には神さまはいっぱいいるのだ。八百万(やおよろず)の神というやつである。
しかもこの場合、姿は見えなくてもよい。生贄は要求されない。敬う対象は何でもいい。どこかにいるにちがいない人知のおよばぬ超越的な存在に対する想像力さえあればいいのだ。
絶対ひとつしか信じない、場合によっては、他のものを信じる人を排除するような態度に比べて、なんと柔軟かつ強靭な態度だろう。近代現代と経るにしたがって、日本人は、自由平等民主の先輩・欧米人に比べて、「人とちがうことに対する寛容性および多様性」という科目に関して劣っていると思いこんできた。確かに現状、不寛容、非多様性のようなことが目につくし。
けれど、もともと全然ちがっていたのである。
おおよそ『古事記』のころ、僕たちの先輩たちは、「神さま?基本みんなの好き好きでいいんじゃないかな。どんな神さまもありってことにしようよ。足し上げると、だいたい八百万種類くらいになるんじゃないの」という自由で大きな考え方を、少なくとも概念的には獲得していたと推測される。
どの言語も、どの文化も、どの民族も、どんな風習も、どのような存在のしかたも、同じくらい豊かで同じくらい価値がある。そこから先、どのように考えるにせよ、いつも、そこを出発点にすべきだと思うのだ。
多様性を機能させるのは、哲学にほかならない。
それは、「いろんな人がいた方がいいよね」などより激しい概念なのであって、理解できないヒトやコト、共感できないヒトやコトをも、いったん100%許容する態度のことである。
いちおうヴォルテールが言ったことになっている有名な言葉がある。
「あなたが言っていることに私は不賛成だが、あなたがそれを言う権利については、死を賭してもそれを守る。」
発言は18世紀中ごろ。すでに決定的な水準まで到達している。
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