「川村元気」はいかにして生まれたか?
山崎:川村さんは映画プロデューサーとして若くして大活躍されています。僕が『億男』を読んだ翌日、新橋演舞場に歌舞伎を見に行ったら、目の前に着物姿の川村元気さんが座っていて。それでびっくりしてナンパした、というのが今日のトークのきっかけです。川村さんはどんな幼少時代を過ごして、映画の世界に入ろうと思ったんですか?
川村:親の方針で、幼稚園にも保育園にも行っていなかったんです。家にはテレビもなかったので、日本語も怪しい状態で小学校に入って。そこで僕を決定づけたエピソードがあって、小学校で粘土を使うから粘土板を買ってきなさいと言われて、僕は文房具屋でピンクの粘土板を買ったんですよ。粘土って黒っぽいから、粘土板はきれいな色にしようと思って。そうしたら「女の色の粘土板」といじられた。テレビの戦隊ものなどを一切見ていなかったので、青は男の色でピンクは女の色だということを知らなかったんですよ。いま思えばその頃から、いわゆる一般的な常識を疑ってしまう癖ができましたね。
山崎:映画との出合いは?
川村:父親が日活で働いていたので映画は英才教育で、テレビはなかったけれど、映画は見せてもらえました。最初に見た映画は『E.T.』でした。当時3歳で、ちょっと怖かったんですけど、自転車が飛ぶシーンには感動しました。その感動が根強くあって。テレビがなかった分、映画1本1本のインパクトが大きかった気がします。
山崎:子ども時代にも、かなり映画は見ていたんですか?
川村:高校・大学時代、ピークの時はビデオ屋に通い詰めて年500本見ていましたね。大学ではドキュメンタリーを作る授業があったんですが、僕はどうしても面白おかしく過剰に作ってしまって、いつも先生に怒られていて。そこから自分はエンターテインメントに向いているんだなと思い始めて、卒業後は東宝に入りました。