“ソーシャルのスイッチ”が入った瞬間は?
並河:箭内さんと初めてお会いしたのは2012年で、それ以来色々とご一緒させていただいています。今日は、震災から4年が経ち、世の中の空気もだんだん変わってきたこのタイミングで、「社会のために」を仕事にすることについて箭内さんと改めてお話しできればと思っています。
箭内:今は当たり前のように「社会貢献」と言われるようになったけれど、実は僕自身はなかなかそれが自分ごとにならなかったんです。音楽プロデューサーの小林武史さんが「ap bank fes」(2005年開始)などでエコ活動を推進していた時期も、僕は全く分かってなくて、いつ自分の中のエコの意識にスイッチが入るんだろう?って思っていたんですね。それが変わったのは、確か2010年くらいの講演で「罪滅ぼしと恩返し」という話をした頃だと思います。これまで自分のことだけを考えて生きてきたけれど、40歳を過ぎ、少しは人の役に立って死なないと後味が悪いと思うようになった。それが「罪滅ぼし」。それから、自分を育てた人や故郷に何か返す責任があるというのが「恩返し」。そうやって徐々に変わってきた感じです。
並河:「ソーシャルグッド」や「ソーシャルデザイン」という言葉が出てきた時は、どう思われました?
箭内:正直、ピンとこない感じでしたね。また広告業界に横文字が出てきたぞって感じで。ただ、博報堂に入る時、僕は重役面接で「広告の力で人を幸せにしたい」と言っていて、そもそもそういう気持ちは自分の中にもあったんだと思います。でも、「賞が獲りたい」「ほめられたい」って気持ちや、他の人と比べられる苦しさにだんだん染まっていって、自分でも見えづらくなっていたけれど。
並河:いま、電通に限らずですが、若い子でそういう気持ちを持って入社する人はたくさんいます。でもいざ会社に入るとなかなかチャンスがなかったり、許されなかったり。僕自身もそうでした。まだ仕事もなかった若手の頃は、夜な夜な一人で企画書を書いていました。そのうちの一つが、食の構造を変える「Food is 風土」プロジェクト。これが当時の企画書です。これからの広告は、世の中の意識や構造をよい方向に変えていく旗印になるんだ、という思いを込めて作ったものです。
箭内:コピーはあまりうまくないね(笑)。でも、憎めないよさがあるね。
並河:(笑)。この企画書、周りの先輩は相手にしてくれなかったけど、白土謙二さんだけが「君は今まで電通に使われる人間だったかもしれないけど、これからは電通を使う人間になるんだ」と言ってくれました。その一言で、頑張って来られたんですよね。
箭内:そういう言葉の遺伝子は一生消えないし、その言葉を後輩に言えた人は一生師匠になるんだよね。黙っていたら誰も自分を見つけてくれないから、自分で手を挙げていかないと次の扉は絶対開かないのは確かです。それで、並河さんはなぜ「社会」の方に行こうと思ったの?
並河:当時は電通社内を見回しても、NPOやボランティアの領域の仕事は誰もやっていなくて、この領域が空いている!と思ったんです。それで同じく空いていた「アイドル」と「ボランティア」を組み合わせた「ボラドル」をプロデュースする企画など、色々とやってきましたが、5年くらいは全く芽が出ませんでした(笑)。ようやく形になり始めたのは、クライアントと一緒に企画をするようになってからです。僕は箭内さんもそうじゃないかと思うんですが、どうですか? 一緒に仕事をしていると、よく「クライアントという言い方をやめよう」と言いますよね。
箭内:独立して、いろんな人たちと仕事をして、「得意先」「クライアント」「お客さん」と色々な呼び方があることを知ったんですよ。でも、どれも自分たちの方から距離を作っているようで、自分が呼ばれる立場だったら、「お客さん」なんて嫌だと思ったんです。だから僕の仕事の時はそういう言い方はやめて、名前を呼ぶようにしてくださいねと言ってます。
並河:それはクライアントと一緒に作っているということですよね?
箭内:そうです。