シャーロック・ホームズの言う「人間全体の数学的な確かさ」は本当か?
「個々の人間は解けない謎だが、人間全体は数学的な確かさを持つ。」(コナン・ドイル著『四つの署名』1890年)と言ったのは探偵のシャーロック・ホームズですが、19世紀の末にすでに、マクロ的な視点での人間の行動を洞察していたとはまさに慧眼です。
ホームズの見解から約100年後の1998年には、数学者のスティーブン・ストロガッツ氏とダンカン・ワッツ氏の二人が「スモールワールド・ネットワーク」という理論を提唱し、そこから「人間全体の数学的な確かさ」について再び語られることになりました。この数理モデルは、現在インターネットを通したソーシャルメディアやコミュニケーションで話題が拡散される様子を説明するものになっています。まさに「数学的な確かさ」というわけです。
「相転移」によってもたらされる突然の変化
前回のコラムで紹介した、サフィ・バーコール氏は、もともと父親とともに物理学者でした。そのため著書『ルーンショット』には、様々な現象に対する物理学的な説明を応用することで、ビジネスにヒントを与えてくれます。そのなかで彼の主張の根本にあるのが、「相転移」という現象です。これは、たとえば物質でいえば、水という分子は常温では液体ですが、温度が下がると凍って氷という固体に変化する現象などのことを指します。液体から固体に「相」が変わるという意味で「転移」はするものの、物質自体が違うモノになったわけではない。しかし、その変化は劇的であり、また急激にあらわれます。
「相転移」は、身の回りのさまざまな変化について説明可能です。それは、車の渋滞が突然起こるのも、この「相転移」現象のひとつです。これまでスムーズに車が流れていたのに、急に渋滞が起き、車が止まるのは、水が液体から個体になるようなものです。車や道路が変わったのではなく、そのなかで動くパラメータ(水と氷の場合は温度)が変化したからです。
渋滞を引き起こすパラメータは、車の速度と、車間距離です。車の速度が速ければ速いほど、より長い車間距離を取ろうとします。あるスピードで車が走っているとすると、車が増え、車同士の車間距離の閾値が短くなった時に渋滞が発生します。渋滞を避けるためには速く車を走らせて車を減らせばいいと考えがちですが、直観的には反するような「スピードを落とすこと」あるいは「追い越しを禁止すること」が渋滞を減らすのに効果的であることは交通工学では常識とされています。
森林火災からスモールワールド・ネットワークを説明する「パーコレーション理論」
相転移は、2つの相反する力が綱引きをしている状態を想像するとわかりやすくなります。液体と固体の場合は、分子が自由に振る舞おうと離れようとする力と、結びつこうとする力が綱引きの状態にあります。渋滞の場合は、ドライバーの車を速く走らせようとする意志と、車間距離を取って安全性を保つ意志が綱引きしていると言えるでしょう。拮抗していた2つの力に変化が起き、それがある閾値を超えると相転移を起こして、渋滞や凍結に突然「相」が変化するのです。すなわちこの状態を制御するパラメータ=温度やスピードがわかれば、この相転移をコントロールできるということになります。
この相転移に関する発見のなかで、1957年にジョン・ハマースリー氏とサイモン・ブロートベント氏が発見したパーコレーション理論は、のちに戦術のストロガッツ氏とワッツ氏のスモールワールド・ネットワーク理論につながっていきます。
パーコレーション理論とは、コーヒーの抽出器のパーコレーターからきており、コーヒーの豆の粉が細かくて密度が大き過ぎたら、湯は通り抜けることができませんが、密度が十分小さいときには、湯がコーヒーとなって滴り落ちます。この場合、抽出器を通過しようとする液体の力と、それを防ぐコーヒー豆という固体の密度の高さの綱引きが起きていると言えます。
彼らは、このパーコレーション理論を用いて森林火災がどう広がるか、という現象の説明に適応できることを発見しました。森で火災が起きた時、それがどのくらいの火災になるかの制御パラメータは大きくわけて2つあります。一つ目は木の密集度合い、となりの木と木の間がどのくらい離れているかと、二つ目は、燃え移りやすさ(風が吹いているか、その森の湿度が低いか)が鍵となります。そしてこれらの要素が合わさった木の密度と火の燃え移る力の綱引きが起きています。つまり、木の密度が火の燃え移る力より閾値以下の時はほかの木に燃え移らず火災が消えますが、閾値を超えると、どんどんと火が広がり森全体が燃えてしまうというわけです。
人間は個人ではなく集団で「数学的な確かさ」を示す
それでは、このパーコレーション理論は人の活動にも応用して当てはめることができるのでしょうか。例えば、人のコミュニティにおける情報の拡散が、この理論で説明できるのか、という問いです。
森林における木と違って、人間は自由に動き回り、まわりの人とだけ交流しているわけではありません。ストロガッツ氏とワッツ氏は、人間をひとつの決まったコミュニティで多くのつながりを持ちつつ、離れたコミュニティと時折つながるというパターンとして、スモールワールド・ネットワークと呼びました。
この考えをさらに推し進めたのがオックスフォード大学のニール・ジョンソン教授でした。彼はパーコレーション理論をもとに、まず金融市場におけるトレーダーの動きに注目しました。特に個々のトレーダーではなく、クラスター集団に注目することで、株式市場の動きを予測しようとしたのです。当然ながらトレーダーによるクラスター集団は固定されておらず、集団はできては解散し、他の集団と併合したり、分かれたりします。
そしてこれらの集団の数と規模の分布は驚くべきことに「数学的な確かさ」を示していました。それの法則はべき乗測です。40人の集団の数は、10人の集団の32分の1、160人の集団の数は、40人の集団の32分の1、というように集団の数は規模の2.5乗に反比例しているわけです。
オンラインのテロリストの行動を予測する
ジョンソン教授は、このべき乗測が多くのケースにあてはまることをデータ収集して検証するだけでなく、この方法をオンラインにおけるテロリストのバーチャル上の活動を見ることで実際のテロ活動を予測できると考えました。実際にジョンソン教授は、テロリストのオンライン活動が、森林火災における火の広がりのように、パーコレーションクラスターとして振る舞っていることを発見し、以下のふたつの制御パラメータを特定したのです。
森林火災で森林における木の密度にあてはまるのは、クラスターの数、つまりテロ集団のオンライングループの数です。もうひとつの火災の広がりやすさに相当するのは、感染力といい、このテロ集団がほかのひとを呼び込む速度を指しています。ジョンソン教授は、森林火災と同じようにこの制御パラメータがいつ限界閾値を超えて相転移するか、つまりテロ攻撃が起こるかを予測したのです。