コンテクストはなぜ伝わらないか~発言者の所属集団を考えると
当時社会学の研究としてこうした語呂合わせによるポケベル利用について、大阪、神戸、和歌山の3カ所で複数の高校生たちに、友人間でやりとりしているメッセージを、数字で構成された文章とそれをカナにあてたものと一緒に1週間に渡って記述してもらうという調査を行ったことがある(この論文の一部は『ポケベル・ケータイ主義』(1997年/ジャストシステム)に掲載されている)。この調査の結果、面白い現象が見られた。
それぞれのエリアの高校生に、他エリアでやりとりされている、数字での語呂合わせ化された文章を見せると、「084」のような日本中誰でもわかりそうなメッセージであれば理解できたのだが、上のような長い文章になると全く解読できない、という場面を目の当たりにしたのである。ここから発見されたのは、ポケベルというメディア上で行われるメッセージは、単に「言葉」を語呂合わせにしたものではなく、「日常的な発話」を語呂合わせにしたものである、という事実であった。つまり、上の長文で言えば、最後の「45」という「記号」が、「ヨウコ」からのものである、ということが理解され、それが解読の鍵となり、「ヨウコ」との日常的(たとえば学校での)な会話を「辞書」として文章を読めるようにしてくれるのである。日常的に会話を繰り返している「ベル友」だからこそ適切に解釈される。だから他エリアの高校生たちにはにわかにわかるものではなかったのだ。
さて、このポケベルの研究を通じて認識したのは、身体的なもの(身振り・表情など)が省かれたメディアにおいては、そこに表示されたメッセージのみでその意味するところを解釈するのは難しい、ということだった。そしてそれが解釈されるには、メディアそのものの特性と、メディア“外”にある所属集団で共有される「コンテクスト」が重要なのだということも(これについては当時より考えは変わっていない)。つまり、メディア上で目の前の現れたメッセージがそこにある言葉だけで全てを表現しているわけではないのだ。
とりわけツイッターのようなメディアは、芦田宏直氏が言うように「微分」的な要素(微分=曲線の中の一点における“傾き”がすなわち曲線の全体の“傾き”を指すようなものではない。すなわち、ツイッター上での発言一つが全てを表すものではないということ)があり、しばしある一つの発言について揚げ足がとられやすい傾向にある。『フェイスブックインパクト』でも少し触れたように、ツイッターというのが炎上しやすいメディアであるのはそれが匿名性を強くすることができるメディアだからなのではなく、フォロー/フォロワーの関係で構成されているソーシャルグラフが同じ興味関心でつながっている「トライブ(集団)」であるか、またはフォローが比較的長く、ツイートの傾向を把握しているフォロワーでない限り、ある一つのツイートが「コンテクストレス」な状態で(RTやメンションなどで)別のソーシャルグラフの中に投げ込まれることがあるからなのだ。
だから「誤解」や「解釈の相違」が起こりやすいのである。それゆえに、乙武氏と私の発言のどちらかが正しいかということを考えることも検証することも、本人2人のみならず、そのフォロワーたちも含めて、その議論自体が無意味なのだ(あえて言うならツイッターというメディアの特性についての議論のみ有意義だろうと思う)。
高広伯彦の“メディアと広告”概論 バックナンバー
- 第19回 ソーシャルメディアの時代なので、クチコミマーケティングを再考しよう:5(5/16)
- 第18回 ソーシャルメディアの時代なので、クチコミマーケティングを再考しよう:4(5/9)
- 第17回 ソーシャルメディアの時代なので、クチコミマーケティングを再考しよう:3(4/25)
- 第16回 ソーシャルメディアの時代なので、クチコミマーケティングを再考しよう:2(4/18)
- 第15回 ソーシャルメディアの時代なので、クチコミマーケティングを再考しよう:1(3/7)
- 第14回 検索連動型広告がもたらした「悪しき」広告観(2/28)
- 第13回 広告主が求めているのは、代理店の新しいメニュー(2/21)
- 第12回 グーグルから学んだこと――広告ビジネスのイノベーション、そして広告人としての個人的興味:3(2/7)
- 第11回 グーグルから学んだこと――広告ビジネスのイノベーション、そして広告人としての個人的興味:2(1/31)