―箭内道彦さんの「NO MUSIC, NO LIFE.」や、福里真一さんの「こども店長」のように、コピーではないけれども機能している言葉についてはどう感じますか。
菅付 コピーライターには広告の言葉の全体的な骨組みを考える人と、広告のパーツとしての言葉の枝葉を整え、アジャストしていく人がいると思いますが、ここ数年、コピー年鑑の新人賞の仕事を見ても、ことごとく枝葉の仕事ばかりで面白くない。新しい言葉を発明するぐらいの気持ちで考えようとする人が少ないと思う。
河尻 広告メディアの枠が明確だった頃には、そういう枝葉のアジャストメントが、“コピーライター”の重要な作業だったはずです。もちろん、そういう意識を超えているコピーライターの方も昔からいますが、それはさておき枝葉末節は枠(フレーム)がないとワークしにくい。でも、いまは広告がどんどん枠の外に出ていって、メルトダウン(溶解)している時代です。ですから、枝葉末節的な言葉だけではなかなか勝負させてもらえない現実がありますし、そこを頑張ったとして世の中全般から見てあまりカッコよく映りませんよね。
ジャーナリズムの使命は、メディアによって手法やスタンス、センスは異なれど、やはりカッコいいものというか、“キてるなう”にいかにアプローチするか、につきますから。いわゆる“コピー”というものは既にそこから外れてしまっているのかもしれない。枠の外というのはメディアだけじゃない。もはや国境さえも超えようとしています。さらに言えば、広告は表現の外にも出ています。
「ミクシィ年賀状」は、マイミクに自動的に紙の年賀状を送るサービス、つまり「使ってもらえる広告」といえそうな仕組みです。そういう状況下で、これまでの枠にはまる表現はどんどんシュリンクしている。言葉だけでなく、デザインも。つまり「広告は広告の外に出始めている」わけです。菅付さん、ポール・ヴィリリオ*1はご存知ですか。
菅付 フランスの都市計画家であり、思想家ですよね。
河尻 そうです。彼が『情報化爆弾』(邦訳は1999年にリリース)という著作の中で、いまの状況を予見するようなことを言っています。「広告は19世紀には単なる製品の宣伝であり、20世紀になると欲望を喚起するための産業的広告となったが、21世紀には純粋なコミュニケーションになるだろう」と。2010年のカンヌ国際広告祭でも「TwelpForce」*2が高く評価されていました。つまり、ヴィリリオの言った「純粋なコミュニケーション」の時代になっている、としか僕には思えないのですが。
*1ポール・ヴィリリオ…1932年フランス生まれ。技術の発展によって人間の知覚や行動がどう変化するのかをテーマとした。代表作に『速度と政治―地政学から時政学へ』『情報化爆弾』など。
*2TwelpForce…2010年カンヌ国際広告祭 チタニウム部門でグランプリを受賞した、米量販店BestBuyの施策。同社の従業員が24時間体制でTwitterを使って顧客の問い合わせに答えた。
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