開発援助の世界にもブランド競争が
前回のコラムでは国連への就職方法などを紹介しましたが、今回からは担当業務の実際に移りたいと思います。
私が所属する広報渉外局内のデザインコミュニケーション部は、昔はプロモーション部と呼ばれていたようです。いわゆる宣伝部的な位置づけで、ここでは毎年開催される「世界食糧デー」のポスターやPRパンフレット作りに始まって、FAO組織内の様々なコミュニケーションの要請に応えています。FAOのロゴやブランドの管理もしています。
実はブランドショップなんてものも運営していて、ロゴ入り野球帽やマグカップなどのグッズも販売しています。国連がブランドグッズ?と驚かれるかもしれないですが、開発援助の世界には国連の他にも「Oxfam(オックスファム…貧困の克服を目指す国際的団体)」や「Save the Children(セーブ・ザ・チルドレン…子どものための民間の国際援助団体)」など様々なNGOや各国の政府開発援助機関(日本ではJICA)が存在して、「ブランドイメージ」を巡る戦いが繰り広げられています。
もちろん互いにパートナーとして、国際社会の共栄と環境の改善という共通の目的のために協力して仕事をしているのですが、各機関にとって「自分たちがどう見られているか」は大きな関心ごとなのです。
ハンストから始まった飢餓撲滅キャンペーン
農業食糧の専門機関であるFAOは、これまで主に政府や専門家向けの情報発信やPRをしてきました。モデルの知花くららさんを登用したキャンペーンで有名なWFP(国連世界食糧計画)や、黒柳徹子さんを親善大使に起用しているユニセフなどの他の国連機関に比べると地味なコミュニケーションです。「一般の人向けに農業や食糧政策を語っても…」といったムードがあったのでしょう。
ところが、2年前の冬に開かれた世界食糧サミットの前夜、FAO事務局長が「世の中に10億人以上も飢餓に苦しむ人がいるなんて許せない」と24時間のハンガーストライキに入ったのです。水も食事も摂らないと宣言してロビーに机を持ち出して業務まで始めてしまった事務局長を前に、FAOの職員達もにわかに盛り上がりを見せたそうです。
いま、先進国では飽食が進み、食糧の生産自体は地球の全人口を養うに十分であるにも関わらず、供給システムの問題や貧困によって、満足な食事に“ありつけない”人が多くいます。ひもじい人がいる、というのは先進国に住む私たちにとっては実感が湧きにくいですが、根本的な解決のためには自給自足ができるように小規模農家を助けたり、食糧供給を政治の優先事項に置くことが非常に重要なのです。
しかし、こういった“現状”自体も難しい話として一蹴されやすく、広報上の大きな課題となっていました。事務局長のハンストがきっかけとなって、FAOを機動力にした新しい形での「飢餓撲滅」キャンペーンが始まりました。
ジェレミー・アイアンズが怒る!「1BillionHungry」プロジェクト
準備時間が短い中、マッキャンエリクソンのイタリアオフィスが社会貢献(プロボノ)という形でクリエイティブの力添えをしてくれることになり、チームは「世界には10億人の慢性飢餓人口がいる」を糸口に世界的なキャンペーンの切り口を考えたそうです。私が入る前にスタートしたプロジェクトだったのですが、当時の様子に詳しい同僚に聞くと、映画にインスピレーションを得たクリエイティブのスタッフが「怒る!」をテーマに「10億人もの人が飢えているなんて、そんなひどいことがまかり通ってたまるか」というキャッチコピーを一気に仕上げたそうです。
キャンペーンのコマーシャルには映画俳優のジェレミー・アイアンズが協力してくれることになり、CMができあがりました(http://www.1billionhungry.org/の画面をクリックしてください)。「21世紀に入って、みんなが豊かになったはずなのに、未だ10億人もの人々が慢性的な飢餓状態にある。こんな現実は、もう許せない。おかしい! I’m Mad As Hell!(直訳:私は地獄のように怒り狂っている)」。こんな怒りをタクシーの中で爆発させるジェレミーの勢いに圧倒されるCMですが、このインパクトと、キャンペーンのシンボルである警告を鳴らす笛の2点セットで「1 BillionHungry(10億人の飢餓)プロジェクト」がスタートしました。
「怒り」は受けたのか?受けなかったのか?
最初のコラムでも書いたのですが、国連のキャンペーンというのは、通常同じメッセージを各国語に翻訳して各地域に展開していきます。このキャンペーンでも同様で、キャッチフレーズの「I’m Mad As Hell」を中国語、フランス語、スペイン語、ロシア語そして他にも日本語やトルコ語などに翻訳する必要が出てきました。
この段階になって「日本語で『I’m Mad As Hell』ってどう訳すの?」とか「『地獄』って国際機関のキャンペーンで使っていい言葉なの?」など様々なコメントや疑問が各国オフィスや関係者から寄せられて頭の痛い状況が発生したそうです。実は私もこのサイトの日本語翻訳の監修に関わりましたが、「うーん、何とも翻訳しにくい英語を選んでくれたものだ」と頭を抱える事も度々ありました。
『I am mad as hell』は結局、日本語では「私はとんでもなく怒っている!」と訳されました(日本語で地獄のように怒る!なんて訳すとおかしいですもんね)。中国語では、「憤怒」という言葉で表現したようです。
イタリア発のクリエイティブといえば、1980年代末にマスコミをにぎわせたベネトンのオリビエロ・トスカーニ氏を思い出す人も多いかもしれませんね。彼が手がけたポスターは黒人の女性が白人の赤ちゃんを抱えていたり、修道僧と修道女がキスをしていたり「ぎりぎり」の線をいつも歩いている、そんなスリリングな作品が多かった。彼の作品も議論を巻き起こしましたが、ある意味で「1 Billion Hungry」プロジェクトもありきたりな広報戦略の枠を出た、ずばぬけたキャンペーンと言えるのかもしれません。
「怒り」をテーマにした表現スタイルへの反応は、地域や国によって様々でした。イタリアやスペイン、そして南米など感情を豊かに表現する「ラテン」な国ではサポーターが集まって一緒に笛をならしてくれたりする一方、特に東アジアのように感情をあまり表さないことを美徳とする文化では微妙な反応もあったようです。
いずれにせよ、世界には10億人が慢性的な飢餓の中で暮らしている、という許しがたい現実を皆の目に突きつけ、問題解決を迫るというキャンペーンの目的自体は達成されたようです。
さて、次回はこのキャンペーンの次のステップ、インターネットチャンネル開局までの秘話を紹介したいと思います。