前回から、メディア上であり得るコンテンツの形態について、基本フレームとなる3つのコンセプトを提示し、それぞれについて解説をしています。前回はストックとフローという軸について話をしました。
今回は、「参加性」と「権威性」というメディア区分の軸について考えてみたいと思います。参加性に軸足を置くメディアというのは特にウェブ上に特徴的なものです。そのようなユーザーからの「参加性」の高いメディアにおける「編集責任」というものが、どのように考えられるべきなのか、ということについて話したいと思います。
まず、メディアにおける「権威性」と「参加性」とは何でしょうか。これを具体的に考えるにあたって、格好の事例が、「ミシュラン」(=「権威性」の代表)と「食べログ」(=「参加性」の代表)だと筆者は思います。
皆さん、ご存知のように、食べログもミシュランも、レストランガイドという意味では同じです。美味しいレストランを探しているグルメな読者が、そのレビュー内容を参考にし、食事をする店を決めるわけです。メディアとして読者に提供すべきメリットには類似性があり、競合している、と言えなくもないわけです。しかし、皆さんも既にお気づきのように、そこには決定的な違いが、あります。
まず、食べログでの高得点レストランよりは、ミシュランに載っている星付きレストランのほうが、テレビなど他のメディアにおいて、盲目的に「美味しい店」として、引用されたり、紹介されたりする傾向が強いですよね。そういうことをもって、やはりミシュランのレストランガイドには「権威」があると言われます。
これ、実際に、どちらが美味しいかどうか?ということは、実は、あまり本質では、ありません。また、実際に、上位に掲載された場合に、お客さんが、どちらに載った方がたくさん新規で訪れてくれるか?ということも、実はあまり本質ではありません。「権威性」とメディアの影響力はある程度は連動し、相関しますが、常に一致するわけではありません。また「権威性」はなくても影響力のあるメディアというのは大いに考えられるからです。
はて、それでは、権威性のミシュランと、参加性の食べログの決定的な違いとは何でしょうか?
ミシュランが食べログに対し、その権威性において「はるかに勝てる」場面を筆者なりに示すとすれば、例えば大事なデートや接待での会食でしょう。具体的には次のような場面です。
アナタは広告代理店の営業マンです。担当する重要な得意先で宣伝担当役員の人事異動があり、大阪支店から新任のA役員が東京本社に赴任しました。あなたは営業部長から、得意先のA役員との懇親のための接待会食をアレンジするように命じられました。
さて、こういう状況での接待の店選びは、営業マンにとっては悩みの種です・・・。レストランにあまり詳しくないアナタは、A役員が和食好きと聞き、いろいろと検索しているうちに、食べログで築地の裏路地に佇む和食の名店「たばた」(架空)を発見します。食べログでもレビュー平均点「4.7」と大変な高得点を獲得しています。なおかつ、ここなら、得意先のオフィスからも近く好都合です。さらに、グルメで有名で築地育ちのアシスタント女性に、その店の評判を聞いてみると、地元で新進気鋭の板前が率いる店として有名で、最近、ミシュランからも星2つの評価を受けたそうです。よし、これなら問題ない。今度の接待は、この和食「たばた」にしよう!と、決め、当日を迎えます。
滞りなく食事も進み、和食「たばた」でA役員との懇親の宴もたけなわ・・・という状況でご機嫌のA役員から質問を切りだされます。
A役員:「いやあ、ここの料理は、美味しかった。本当にいいお店ですね。ところで、このお店はどうやってお知りになったんですか?」
あなた:「いやあ、色々と検索してたら、たまたま食べログが引っかかりましてね。レビュー点数も高かったんで決めたんですよ」
と正直には、なかなか、バツが悪くて言いにくいのではないでしょうか。
理想的な受け答えとしては、「いやあ、仲のいい友人が、築地が地元でしてね。この店の評判を聞きまして・・・。それにこの前出たミシュランでは、いきなり星2つを取ったというものですから・・」というようなのが、まあ無難な受け答えになりそうです。
これは「よし、今日こそは!プロポーズだ」というような、デートの場面でも同じことが言えそうです(もちろん、ここは、今ちょうど、世の中の価値観が割れている部分なので、上の受け答えでも全く問題ない人もいるでしょう。むしろ「情報感度」が高い優秀な人、なんて評価もあり得るかもしれません。あくまで一般的な価値観を持ったコミュニケーションの受け手を想定しています)。
しかし、そもそも、なぜ、人は大事な会食の場面において、ホストとして自分が飲食店を決める際に、「食べログの点数が高かったから、ここに決めた。」と相手に言いにくい雰囲気があるのでしょうか?
大げさに言えば、このミステリーについて考えると、「権威性」に重きを置くメディアと「参加性」に重きを置くメディアの違いが浮き彫りになると思います。
ここでのキーワードは、「コントロール」と「意思」そして「責任」です。
まず、もし、ミシュランに「まずい店」が載っていたら、その責任は誰が負うべきか?について考えましょう。
当然のことながら、ミシュラン社が一義的に、責任を負うことになるわけです(メディアとして道義的には、の次元ですが)。なぜならば、どの店を、どの星の評価を下し、載せるか?あるいはそもそも載せないか?はミシュラン社によってその仕事を委託された審査員スタッフによって実行され、ミシュランガイドの編集長によって、コントロールされます。世界最高のレストランガイドとしての「権威」を保つために、ミシュランは実際に大変な努力を払っているようです。
ウィキペディアによるとその評価方法は、以下のようなものです。
- ガイドブック内に広告は掲載しない。
- 評価対象のレストランに対して、匿名での調査が基本。
- フランスの慣習「料理評論家が評価対象のレストランでの食事に代金を支払わない」には従わない。
- 身分を明かした後、写真撮影の為の料理代金は店持ちに。
- 調査員は調査地域を固定されることなく、各地を転々とする。
- 調査員の大半はホテル学校の卒業生で、5年から10年のレストラン・ホテル業界経験者のミシュラン社員であるとされる。
- 新人審査員は6カ月の研修の後、さらに6カ月先任者と同伴して調査に臨み、適性が審査される。
- 同じ審査員が同じレストランを3年以内に再訪することは無い 。
どうでしょう?ほぼ考えられる限り最高レベルの厳正さではないでしょうか?
こういう厳正さに思いを巡らしつつ、「大事な貴方をおもてなしするのだから、ミシュラン・ガイドに従って店を選びました」と言えば、もし万が一、会食で不愉快なことがあっても、店選びの観点で、そのことを咎める人は少ないでしょう。
上記のように、審査員の人材育成プロセスから、誌面に掲載される写真の撮影コンディションまでをも「コントロール」することで、ミシュランはその「権威性」を保っています。ある店がミシュランに掲載されるときには、上記のようなプロセスを通過した審査員や編集者の明確な「意思」があるわけです。 意思を持ってプロセスとアウトプットの全てを「コントロール」するから、そこに「責任」が発生し、その報酬としてその内容にメディアとしての「権威」が生まれてくるのです。
私は食べログは、素晴らしい「参加性」メディアだと思いますが、上記のようにミシュランが大変な努力を払い、おそらくは「責任を取ろう」としている意味において、食べログ内に掲載されるレストランや、レストランレビューの内容に、食べログの運営会社であるカカクコムが「責任」を持つことを期待できないことは、皆さんも容易にお分かりいただけるでしょう。
なぜならば、食べログは、どのレストランが、そもそも食べログ内に掲載されるべきなのか?や、ある店が、どのようなスコアをつけられるかどうか?それらのメディアとしてキモになるその内容について、食べログは、自分自身で直接に「コントロール」することができないからです。
その意味において、食べログをそのまま信頼する態度は無責任で、何よりも責任感のアピールが求められる接待やプロポーズのような場面で、そのことをそのまま伝えてしまうというコミュニケーションには危険が伴います。
「お前のところの飲食店レビューがインチキだから、大事なプロポーズを失敗したじゃないか!信じてたのにぃ!どうしてくれるんだ!」と、ミシュランに怒りの電話をかける人がいれば、「まあ、少しは気持ち分かるな」と思う人はいそうですが、同じパターンで、カカクコムに電話して「あそこのお寿司は、美味い!って食べログに書いてあったけど、ひからびてるじゃないか!馬鹿!責任とれ」と苦情を言っている人間がいれば、クレーマー扱いでしょう。
なぜならば「コントロールできないものに対し、その内容に責任を取れ」というのは、単なる言い掛かりだからです。それくらいに、編集権のコントロール範囲というのは重要です。なぜならば、それがイコールで、編集「責任」の範囲になるからです。自分が、メディア編集者として、何をコントロールして、何をコントロールしていないのか、について自覚するのは、プロとして必須の基本態度です。これは紙だけでなく、ネットにおいても全く100%当てはまる原則です。
(次ページヘ続く)