僕は、2005年に中国に移住し、中国語を勉強して2007年に読広大広(上海)広告有限公司の立ち上げに参加しました。もう中国も7年目になるのですが、最初から今でも「中国と広告のプロ」を目指し、日本から中国に進出してくる会社に対してマーケティングのお手伝いをすることをビジネスにしたいと思っています。日本には「広告のプロ」はたくさん居ますし、「中国のプロ」も意外とたくさんいます(最近の中国関連本の量とかスゴイですものね)。ですが、その2つの輪が重なりあった部分の日本人って、意外に少ない。人間、何か2つ以上の技術があると誰かに重宝してもらえるような気がしています。クリエイティブもできるプログラマーとか、ヘアメイクもこなせるカメラマンとか、女装も出来る男性、とか(最後のはウソ)。
2005年に27歳で中国に来たばかりの頃は、当然一言も中国語は話せませんでした。闇雲に営業をしてやっとグラフィックの仕事をとってきて、居候させていただいていた会社の中国人デザイナーと打ち合せ。上がってきた原稿のフォントがゴシックなので、それをもう少し柔らかい感じにしたくて、それを伝えます。まずは、漢字で「柔」と書いて見せてみますが、不思議な顔をしている。次に「優しい書体」というフレーズを思いつき、「優的書体」と書いてみますが、もっと怪訝な顔をしている。最後に、「女性っぽい書体」なら通じるか?!と思い「女風」と書いてみたところで、彼は欧米人のように肩を上げアタマを振りながら会議室から出て行ってしまいました。そんな僕も、今では立派に中国語でプレゼンも質疑応答もしますし、グルインのモデレーターだってやっちゃいます(「明朝」と漢字で書いても、あの“明朝時代”の意味しかないことはたまたま知っていた)。
2007年の会社立ち上げ時には、本社のクライアントにも必死に営業しました。三菱自動車さんへの提案資料に使おうと思って媒体担当に「三菱自動車の年間広告出稿費を調べてください」とお願いをしたのですが、一週間後にあがってきた資料には、三菱電機、三菱重工や三菱化学、果ては三菱鉛筆まで一緒くたに入っている・・・。「これはダメだよ、使えないよ。三菱自動車だけ取り出してやり直して」とお願いをしたら、机に突っ伏して「ワタシハホカニモタクサンシゴトアルノニーフギャー」。ワルイ日本人が新入社員をイジメているような絵になってしまいました。
2012年現在、社員は約30人。世間から見たら吹けば飛ぶような弱小広告代理店ではありますが、立ち上げからやらせてもらっている僕にとってはコツコツと作り上げた宝物のような会社です。設立当初から今も僕の右腕をやってくれている中国人デザイナーとは、毎日2人きりでずーーーーーっと働いていました。「徹夜でプレ準備をしてマッサージで一時間だけ睡眠からのアサイチプレゼンで午後撮影」、みたいなこともしょっちゅうこなしていました。一度、春節(中国の正月・日本と一緒で基本的には絶対に休む)にも仕事をしなくてはいけなくなったときには、彼の家で一緒に年越しをし、彼の父親から南京大虐殺について問い詰められるという事件もありましたが・・・。こうやって思い返すと、立ち上げ期には、ゲリラ戦を一緒に戦ってくれる仲間が本当に大切だと思います。
僕は、日本が大好きです。そんな僕が日本を出たのは、海外でお金を稼いで日本に返せば、それが一番日本のためになると思ったからです。日本国内でお金を稼いでも、同じ財布の中で、あっちのポケットからこっちのポケットにお金を移動しているだけのような気がするのですが、海外で稼ぐと財布の外から「日本」という財布にお金を新たに入れる、みたいな気がして、より充実感があるのです。
若輩者につき誤解していることや、生意気でお気に触ることも書いてしまうかもしれませんが、合計12回、中国は上海から自然体で思ったことを書かせていただきますので、どうぞお付き合いください。よろしくお願いします(間違いがあった時には、優しくご指摘頂けますと幸甚です!!)。