東日本大震災、それに伴う原発事故の発生と、政府としての危機対応のあり方に大きな注目が集まった激動の時に、内閣広報室審議官として官邸に居合わせた下村健一氏。TBSでニュースアンカーとしてキャリアを築いていた最中、一転して官僚の世界に飛び込んだ彼の目に、世紀の国家危機対応はどう映ったのか。2012年10月に2年間の任期を終えて同職を退いた下村氏に話を聞いた。
「普段から危機に対するシミュレーションがリアルにできていないと、ここまで何もできないのだということを、震災以降、痛いほど感じました」と話す下村氏。原発問題で政府の広報のあり方は国民から多くの批判を浴びてきたが、その裏には平時の危機管理に対する国としての認識の甘さがあったと話す。「まず致命的なことに、前例がない事態に対しファクトの把握ができず、政府に助言すべき専門家達にも、次に何が起こるかの予測がつかない。さらに、情報収集や報告系統のスキームが整備しきれておらず、トップである首相に、今現場で何がどうなっているのかが正確に届かなかった。対応の反省点はほとんど、そういった備えの欠如に起因しています」。
同時に痛感したことが、“相手に通じる言葉の訓練”の大切さ。刻一刻と状況が変わる中で、何を判断基準とし、その判断を国民にいつ・どう伝えていくか。多くの人の命が掛かってくるかも知れない状況の中で、言葉の使い方ひとつ取っても丁寧に選ぶ必要があった。「原発問題では、政府だけでなく専門家たちからコメントを発する場も多くありましたが、世の中に通用する説明になっていない場面も多く見受けられました。学会では通用するけれど、広く国民が納得できるものではない言葉遣い。日頃から相手に合わせた言葉の訓練をしていない人は、非常時の説明も全然できないことが歴然でした」。
“不都合でも隠すな、不確かなら流すな”―――これが当時の菅直人総理と枝野幸男官房長官から繰り返し指示された原発広報の2大方針だった、と下村氏は言う。にもかかわらず、枝野会見の「直ちに影響はない」という言葉は、「明らかに説明不足」と非難を浴び、一種の流行語になるほど物議をかもした。下村氏はあの発言に関してこう振り返る。「最も時間がなく会見メモの推敲もできない時には、枝野さんのアドリブ表現で、国民に対して説明できることの全てを話していましたが、当時は本当に、あの言葉が政府として精一杯の言えることでした。あれがベストの表現だとは思わないが、かと言って当時入手できた情報量の中で、他にどう言うことができたのか。別の手立てを確立しないと、誰が官房長官でもまた同じことになります」。
“別の手立て”とは、一つの見解のみを示すのではなく、その見解に至った経緯の議事録や、併存する不確かな見解をも「質問」という形で紹介するQ&Aなどを、会見と並行して示すこと。「不確かな情報は断定的に流さない、という姿勢は、今後も絶対に堅持せねばなりません。ただ、一つの見解を示すだけではどうしても不十分。その見解に絞るまでの経緯をいかに透明性を持って同時に伝えることができるか、危機発生時にはその姿勢が特に強く問われます」。
また、結論が出ていない時や手元に情報が揃っていない時でも「広報」し続けることが大切だと話す。「危機が発生すると、何も言わないことはありえない。そこには何らかの説明責任が必ず伴います。電車がストップした時に何も車掌のアナウンスがなかったら車内も苛立つでしょう。そこで『情報が入り次第お伝えします』というアナウンスがされれば、情報量ゼロにも関わらず、乗客の苛立ちはかなり緩和される。何も出せる新情報がなくても、途中経過だけでも小マメに伝えることが、危機発生時の広報の大切な役割です。あの時枝野さんも、『情報が揃わないから会見を延ばしましょう』という官僚の進言を退けて会見室に向かったことが、何度かありました」。
もう一点、下村氏が指摘する問題が、広報のプロの不在。各国の政府関連ニュースによく登場する“報道官”という存在が、これからは日本政府にも必要だと話す。「情報を扱うプロとして、舌足らずにならず、的確に記者とコミュニケーションが取れる人物が欲しい。日本では大臣や官房長官が会見で何か言うと、発言の中身よりも、政治的思惑や言葉尻の失言などが大きく伝わりがちだと思いませんか。政治的な責任を伴った発言や政局について語る時には政治家が会見するのが筋だと思いますが、政策についてはきちんと報道官が登場して国民に説明すべきで、普段からそうなれば、非常時にも発信はグッと円滑に行くと思います」。
内閣広報室では現在、震災以降の対応の中で培われた各省庁間の連携や連絡態勢などを普段の広報に定着させるべく、震災時広報体制の“普段化”に取り組んでいる。震災の2日後に各省庁の広報課長を官邸に緊急招集して、「これからはもう、省庁の壁は取りましょう」と一致して始まった改革のひとつだ。「震災以降、各省庁の広報課長会議は定期的に開催され、並行して各広報課の中堅メンバーが集まって成功事例や悩みを交換しあうワークショップも始動。これまであった目に見えない壁はかなり溶けてきたように思います」。
震災を契機に変わり始めた霞ヶ関の広報だが、原発に関する広報は、今なお課題が山積み。国民的議論の場として多くのメディアで報道された各地の意見聴取会では、当初の紛糾を受け、途中から下村氏が司会に加わった。「完璧な進行表があっても、時間制限のメモを出されても、会場の空気を最優先しますよ。野次でも良い野次だと判断したら、大臣に“答えてください”と振るかもしれませんよ、と担当の古川国家戦略大臣(当時)に伝えましたが、何とそれで構わないと言うので司会を引き受けました」。ほぼ“予定調和抜き”で行われた会では、参加者から「政府の顔を見せろ!」と言われると、「今来てる政府関係者全員立って、客席に向かって挨拶しましょう」と司会席から下村氏が呼びかける場面も。「大臣たちが定刻で引き揚げ一旦閉会した後も、審議官2人で急遽延長の場を設けるなど、最後は参加者から“よくここまで聴いてくれた”といわれるまでやりました。原発広報は、国家として地道に、超長期継続して真摯に取り組まなければならないテーマ。今後も何党が政権を取ろうと、まっすぐに向き合っていくことが必要です」と力を込めた。
【下村氏略歴】
1960年東京都生まれ、東大法学部卒。1985年TBS報道局入社。その後フリーに転じ、「みのもんたのサタデーずばッと」「筑紫哲也NEWS23」などに取材キャスターとして出演。2010年10月から2年間、内閣広報室審議官。