枡野 俊明 曹洞宗建功寺住職、庭園デザイナー
――禅と日本庭園の関係を教えてください。
禅とは、人間の計らいを超えたものを自分のなかに拠りどころとして見つける行いです。哲学は学問ですが、禅は理論を“行”として行うもので、鎌倉時代から室町時代にかけての禅の全盛期には、僧侶自身が会得した境地を墨絵や漢詩(偈頌「げじゅ」という)、庭造りで表現する活動が盛んでした。庭造りをする僧は、「石立僧」と呼ばれ、この時期、たくさんの庭が石立僧によって造られました。
平安時代までの庭園は、貴族の教養としてのたしなみや旅先で見た美しい景色を再現する手段でしたが、「禅の庭」は、石立僧の心を表現したもので、いわば修行の成果なのです。
――枡野さんは、庭を造る際、どのようなことを意識されているのでしょうか。
禅の教えに、「水を毒蛇が飲めば毒になり、牛が飲めば乳になる」という言葉があります。つまり、水は、飲む主体によって毒にも薬にもなるということです。庭造りも同様です。庭を毒にするのも、乳にするのも造り手次第なのです。ですから、庭造りは、常に真剣勝負です。といっても、庭を支配しようとは考えません。庭というのは、日の当たり方、空気の流れ、周囲に見えるものといった環境や、車の騒音や視界に入るビルなどの制約条件を無視しては造れません。そうしたものをすべて理解し、受け入れたうえで、そこに置く石や樹木の命を最大限に生かしながら、見る人の心に訴える庭を造る。それを常に心がけています。
――庭造りが修行となると、その庭を見る側にも覚悟が求められますね。
日本庭園は、見る側の力量を問います。日本の庭園は、全てをそのまま見せることはしません。たとえば、滝なら、木の間などから部分的に見えるようにします。そうすることで、見る側は、その滝の全体像を想像することになります。このように、日本庭園は、見る側の考える余地を残しているのです。
これは、能や茶道、華道などの禅の影響を受けて発達した伝統文化にも共通しています。造り手と受け手の感性のやりとり=交感を生むのが日本の庭園なのです。
といっても、構えて見る必要はありません。“こう見なければいけない”という決まりはなく、自分が好きだと思える庭を見たらよいのです。ただ、“ひとりで静かに眺める”ということは大切です。心をまっさらにして、頭ではなく、感性で見る。すると、花がきれいだな、鳥のさえずりが心地いいなと感じます。心が解き放たれれば、自然に自分自身と向き合うようになる。つまり、庭は、自分を振り返るための場なのです。
ですから、何回か同じ庭に行くことをお勧めします。同じ庭でも、季節や時間帯、光の当たり方、花や緑の色、空気の温度などによっても違って見えます。その変化を感じることで、留まることなく移ろいでいく時間のなかに自分が生かされていることを実感できるのです。
禅は本当の自分を見つける手段
――庭園の設計に加え、禅に関する本を多数出版されています。そうしたなかで、禅に対する社会の興味や関心の高まりを感じることはありますか。
これまで、一般の人向けに禅をわかりやすく解説した本を出してきましたが、全て重版され、なかには、20数万部も売れたものもあります。一昔前までは、禅の本などは、専門家しか読まなかったのですから、私自身、とても驚いています。それだけ多くの人たちが禅に関心を持つようになったということでしょう。
その背景には、現代社会が抱える問題があると思います。アメリカ型の成果主義が浸透した結果、一生懸命働いても会社を辞めさせられたり、社内の競争で人間不信に陥ったりというケースが増えています。何を心の拠りどころにしていいかわからなくなり、自殺したり精神を病んだりする人が増えているのです。
――厳しい社会を生き抜くうえで、禅にはどんなヒントがあるのでしょうか。
いくら問題があると言っても、社会の構造は簡単には変わりません。そうなると自分が変わるしかありません。本来、人は、その人の絶対的な価値観、別の言い方をすれば、本当の自分(本来の自己)を持っています。しかし、成長に伴い、周りの価値観に左右されたり、モノに執着したりして、本当の自分が見えなくなってしまうのです。
私は、これを“心のメタボ”と呼んでいます。本来の自分を見えるようにするためには、この心の周りにたまった我欲を捨てることが肝心です。他人の価値観に左右されるのではなく、自分がいいと思う方を選ぶ。自分と他人を比べて張り合うのではなく、それぞれがそれぞれのように生きる。それが大切なのです。
――頭では分かったつもりでも、実行するのは難しいことですが、どうすれば実行できますか。
禅に、脚下照顧(きゃっかしょうこ)という言葉がありますが、これは、自分の足元をよく見るということです。たとえば、靴を脱いだら、その場ですぐに揃える。つまり、自分の目の前にあるやるべきことに集中するのです。そうやって瞬間、瞬間を一生懸命生きれば、周りの声にいちいち振り回されることがなくなります。
それから、一つひとつの所作を丁寧に行うことも大切です。禅では、「調身、調息、調心」といい、身を整え、呼吸を整えることで、心が整うといいます。小さなことでも集中して丁寧に行うことを積み重ねていけば、それとともに心の階段も上がっていき、やがて見える景色も変わってくるのです。
――禅を生活に採り入れ、よりよく生きるためには、どうすればいいでしょうか。
お寺で坐禅を組まなくとも、禅の精神を実践することはできます。ひとつは規則正しい生活をすることです。私は、毎朝、決まった時間に起きて身支度を整えると、仏様を拝みながら、本堂や門を開けて回ります。その後、仏様にお茶を上げ、朝のお勤めや朝食を済ませた後、7時半ごろから仕事を始めます。9時頃までは、電話や来客もないので集中して仕事ができます。夜7時ごろには仕事を切り上げ、家族と一緒に食事をし、その後メールチェックをしたら、後は静かに過ごします。こういう規則正しい生活をできる限り毎日続けています。
毎日同じペースで暮らすためには、仕事は、その場その場でやり切ることが大切です。ですから、仕事をしているときの集中力はものすごいですよ。
人間は怠け者ですから、規則正しく暮らさなければ、すぐ生活が乱れ、心も乱れます。したがって、規則正しく生活することは、修行なのです。
それから、一日一回立ち止まって静かに過ごすことも大切です。そんな時は坐禅をするもよし、音楽を聴くもよし、アロマを焚いてもいいでしょう。ちなみに、漢字の“一”と“止”とを合わせると“正”になります。一日一回立ち止まり、心を空にすることは、正しいことなのです。
――現代社会が抱える問題に対処するうえで、禅には、どのような可能性があるのでしょうか。
ヨーロッパでも講演をしているのですが、驚くほどたくさんの人が集まります。これまで世界が追求してきた“モノが豊富=幸せ”という考え方が誤りだということに人々が気づいたことの現れでしょう。
我欲をそぎ落とし、心の平安を求めるために毎日を丁寧に生きる。こうした禅の考え方は、洋の東西を超えて通じるものであり、これまでの物質主義的な社会が生み出した様々な問題の解決に役立つ考え方だと思います。
枡野 俊明(ますの しゅんみょう)
1953年神奈川県横浜市生まれ。多摩美術大学環境デザイン学科教授、ブリティッシュコロンビア大学特別教授。日本造園学会賞(1997年)、芸術選奨新人賞(1999年)、カナダ政府よりカナダ総督褒章(2003年)、ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章(2006年)など受賞多数、2006年には、ニューズウィーク日本版10月18日号『世界が尊敬する日本人 100人』に選出された。『人間関係がシンプルになる「禅」のすすめ』(青春出版社)、『頭が冴える禅的思考』(ソフトバンククリエイティブ)、『禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本』(幻冬舎)など著書多数。
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