2月、突然の大地震が襲いました。マグニチュード5。津波警報が発令。社員もテレビにかじりつき、情報収集、運行対応にあたりました。結果的に津波は20㎝。山田湾の牡蠣のいかだに被害がでましたが、陸は大きな損害はありませんでした。
それから3週間後の3月9日、再び大きな揺れがありました。マグニチュード5、再び津波警報です。2月より大きな津波とのこと、各地の港からの映像が次々にテレビに流されてきました。久慈港の第一波の様子が写されました。肉眼では判別しにくい50㎝程度の津波が押し寄せました。やがて解除となり、一安心という結果でした。
そしてその3日後、14時46分、あの大地震が襲ってきました。宮古の本社社屋の内部はほとんどのものが倒れ、書類やパソコンなどがバタバタと倒れ、手のつけられない状況に。望月社長は「退避、安全な場所へすぐに退避、荷物は全部置いていけ」と命令。駅舎の後方にある陸橋の最上部へ幹部は移動。社員には避難所(県の出先機関のビル)へ行くように命じました。当然2度の地震とは比較にならない規模。とんでもない異常事態であることはすぐに理解できました。
大津波警報が発令されました。ラジオからは「大津波警報、6メートル以上の津波」が数分後「10メートルを超える津波」に変わり、やがて「場所によっては20メートルを超える」とアナウンサーが叫んでいました。
宮古の津波は沿岸にある市役所やオフィス街を通り、民家を押し流し駅前のロータリーのところで止まりました。おそろしい破壊力です。幸い三陸鉄道宮古駅は被害を免れました。
あのおちゃめな望月社長はその後、強いリーダーとして冷静かつ迅速、的確な行動と指示で見事な指揮をとりました。
(次回につづく)