「明日から編集部に行き、特集記事の手伝いをするように」と指示され、知り合いのひとりもいない編集部で、途方にくれながら割当てられた仕事をこなしていた。
当時の週刊誌は、"アンカーマン・データマン方式"といわれる手法で記事が執筆されることが多かった。これはひとつのテーマを、3~4人の取材記者で分担取材し、その結果をベテランライターが記事にまとめるというものだ。
当然、古株の記者がメインを担当し、私のような駆け出しとも言えない、まったくのど素人には、まともな取材先は割り当てられない。いくら走りまわっても、一行にもならない捨て草のような取材先ばかりを担当させられていた。
端から、何も期待されていないのだから、当然といえば当然だが、単に、当たればめっけ物というわけで、常軌を逸した指示がくることも多かった。
その年の年末、師走ムードの漂う日の夕方のことだった。私のポケベルが鳴り、編集部に連絡すると、直ぐに上がって来て欲しいとのことだった。その際、編集者は「できるだけ、暖かい恰好をして来て」と付け足した。
嫌な予感を抱きながら、編集部に着くと、ある事件の容疑者が、新宿の総合病院に偽名で入院しているとの情報が入った。夜中に病院を抜け出して、仲間のところに行くかもしれないので、朝まで張り込んで欲しい、という指示である。
出入り口がいくつもある総合病院をひとりで張り込むというのは、まず、不可能だ。まして、夜通しというのは、いくらなんでもヒドイ。内心、そんな思いを抱きながら張り込みについたものである。
その夜は風が強く、時折り襲ってくる強風でからだがあおられ、立っていられないほどだった。少しでも寒さをしのごうと、近くにあった電話ボックスに入り、複数の入口をじっと目を凝らして監視していると、真夜中というのに時折り、人が電話をかけに来る。その都度、電話ボックスを空け、人が去ると、再びボックスに籠るということを繰り返していた(携帯電話はなかった時代である)。
白々と夜が明けていくなか、自分は無意味なことをしていると思った。しかしここで投げ出せば、道は閉ざされてしまう。通過点と考え、まともな取材ができるよう実力をつけるほかないと、自らを慰めたものである。
この後、それまで以上にどんな些細な取材でも、全力で取り組むようになったと思う。
ちょっとした談話取材でも、電話をかける前に可能な限りその人物について調べ、質問を練り、記事に深みや奥行をもたせる話が引きせるよう努め、さらにはその談話が、そっくりそのまま記事に反映されるよう、文章にも気をつかい、データー原稿にまとめるよう心掛けた。