Creationのブラックボックス
アメリカ、イギリス、カナダ、最近は日本の大学にも、“Creative writing program”という小説創作コースを持つところが増えている。はじめて聞いた人は必ず思う。「大学の授業なんかで小説書けるようになるのか?」と。当然、僕も思った。
いちばん有名な小説創作コースは、アイオワ大学のそれで、ジョン・アーヴィング、フラナリー・オコナー、マイケル・カニンガムなどを輩出している。イギリスでは、イースト・アングリア大学。カズオ・イシグロ、イアン・マキューアンなどブッカー賞に輝く作家たちが卒業した。
「いかに優れた技法で書くか」。この一点にしぼって、プログラムが組まれているらしい。技術である限り、伝授可能という視点に立っている。Howを的確に教えれば、Whatは後からついてくるという考え方、あるいは、Whatは教えられないという考え方だ。
Creationという行為において、どの程度がブラックボックス、つまり説明のつかない特別な能力で構成されているのだろう。プロスポーツ、クラシカル・ミュージック、囲碁将棋などなどは、明らかにブラックボックス優位。優れた技法がどうのこうの言っても無駄である。「神様が頻繁に彼らを訪れる」ような人々だけが必要とされる世界だ。
盤面に向かっている羽生善治の隣りには、降りてきた神様がずっといるのだ。「手を生み出すのには、時間はかからない。自然に浮かぶ(右脳神降り領域)。確認するのに時間を使う(左脳技法領域)」らしい。
小説も、今までずっとそっちだと思われてきた。けれど、creative writing programの成果や、例えば脚本についても、シド・フィールドの “Screenplay”というハリウッドの人間が全員読んでいる決定的な“技法”の本が出て、神降り領域と思われてきたところに、技法領域がだいぶ侵入してきている。多くの、おそらく普通の人たちが、カジュアルに、天才も住む場所に出かけて行っているのだ。
ま、いいことなんじゃないでしょうか。ちょっと元気出ますね。
ふつうの奥さんやどこにでもいるような若者が、ドストエフスキーやプルーストと勝負しようってわけだから。下剋上だ。天分より技法習得から入る。いわば、学習芸術家である。文化史というのは、要は、ブラックボックスをみんなで小さくしていくことだということがよくわかる。
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