テクノロジーと祝祭性の同居
「祝祭」の定義はおそらく、
「日常ではありえないことに、みんなが遭遇して高揚すること」だと思われる。
だとすれば、広告表現こそ、この祝祭の力を高度に持つべきだろう。
「祝祭」概念からまずアタマに浮かんだのは、意外なことに、Honda “Sound of Honda -Ayrton Senna 1989-“だった。
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ここには、本当の祝祭性がある。すべての人を深くまきこみ、その個々の巻き込まれ方が、歴史と、リスペクトすべき対象とみんなとをつなぐようなできごと。それを、僕は「祝祭」と呼びたいのだ。表現の力によって創り上げられた「祝祭」と。なにも、大勢集まって大きな声を出すことが祝祭でもなければ、みんなで大騒ぎすることでもない。
ここには、クールだけれど、確かな祝祭性がある。アタマを経由して再構築した上でいいと思うのではない。役に立つとか、そんなことともちがう。見る側聞く側に考える余地はない。ただひたすら浴びるのだ、そこで起きていることを。
そこにセナはいない。けれど、そこにセナはいる。とても明確に。データが肉体を持つのだ。リクツ抜きに、説明なしで、エモーショナルに持っていく力。
僕たちの仕事でいちばんえらいのは、みんなを、ぐっと、来させる奴である。僕たちが獲得しなければならないのは、それだ。どんなルートのアイデアと表現であっても。上げ底したエントリー・ヴィデオをつくることでは決してない。
セナのクリエイティブ・ディレクター 菅野(薫)くんが、さっき教えてくれたエピソード。
「1969年、フェリーニの『サテリコン』のアメリカでの上映は、ロック・コンサート後のスタジアムで、巨大スクリーンに映写された。会場の上空までマリファナの匂いが立ち込めて、何万人というヒッピーたちが、寝そべり、立ち上がり、愛し合いながら、スクリーンを呆然と見つめていた。壮観だった」
ひとりの人間の中に、テクノロジーと祝祭性が同居していると、とても幸福だと思う。
フェリーニの『8 1/2』は、本人と思われる映画監督を主人公にしている。天才がうじうじしてるところを天才が映像化するとこうなるのかという映画で、今ではこんなの誰も創れないだろう。
フェリーニは、そのラストシーンで、主人公の映画監督グイドに言わせている。
「人生は祭りだ。いっしょに生きよう。」
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日本を代表するクリエイティブディレクターであり、電通のクリエイティブのトップを務める古川氏が、「クリエイティブディレクション」という、今まで漠然としていた技術を初めて体系化。
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