【前回のコラム「公私混同計画。」はこちら】
古橋 亮羽(東京アドデザイナース コピーライター)
みなさん、こんにちは。古橋 亮羽(フルハシ リョウ)です。
先日29歳になったのですが、いまだに学生に間違われるのが悩みです。
前回は養成講座でコピーと出会い、コピーライターになったところまで書かせていただきました。
コラム2回目は、その後の名古屋時代の話。
今週もよろしくお願いします。
名刺だけが、コピーライター。
新卒で3年半勤めた会社を退社し、ついにコピーライターとしてのキャリアがスタートしました。私服で出社し、仕事として文章を書ける毎日。望んだ場所に、そうでない場所から移ってきた身としては、こんなことでお金がもらえるんですか?と思ってしまうくらい、恵まれた世界に感じました。
一方で、業務外でのコピーの勉強は、ますます熱を増すように。1年前まで広告に興味すらなかった人間が、すっかりコピーバカになっていました。
当然、コピーが書きたい気持ちも日に日に強くなっていきました。しかし、そう簡単にはいきません。名刺の肩書きはコピーライターでしたが、名古屋の小さなプロダクションという環境上、会社で広告のコピーを書けるチャンスはほとんどなかったのです。
ない仕事は、つくるしかない。
僕は、会社の外で仕事をつくることにしました。経営や広報に関わっている友人、広告会社で働く知り合いなどに、自分はコピーが書きたい、広告の仕事がしたい、ということをとにかくアピールしていきました。
広告界の人たちが集まる場には積極的に顔を出すようにして、横の繋がりを広げることにも力を入れました。この頃には公募の賞にそこそこ名前が出ていたので、面識のなかった方が仕事を依頼してくれたこともありました。
結果、得ることができたいくつかの仕事には、新聞15段やテレビCMなど、会社の中では絶対に経験できないものも。◯◯のコピーが書きたい。△△のコピーが書きたい。□□のコピーが書きたい。と、事あるごとに言っていた日々を思い出します。
東京と中村組と私。
この頃、東京のコピーライター養成講座専門コースの中村禎クラス(通称「中村組」)にも、名古屋から通っていました。
講師である中村禎さんは、イメージしていたとおりの熱い方でした。ご自身がいままでのキャリアで実践してきたこと、考えてきたこと、感じてきたこと、出会ってきた言葉。それらを全10回の講義に凝縮し、惜しげもなく伝えてくれました。
その内容はコピー論にとどまることのない、コピーライターとしての生き方そのもの。心と背中で語っていただいた半年間でした。講義後の飲み会で、お酒が入った禎さんの本音のお話が聞ける時間も好きでした。
そして中村組へ通うたびに、僕は東京という場所を強く意識するようになっていきました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
最終回となる来週は、東京での最近の話です。
古橋 亮羽(フルハシ リョウ)
東京アドデザイナース コピーライター。1985年生まれ。愛知県安城市出身。愛知大学経済学部経済学科卒業。FCC新人賞、第6回SBSラジオCMコンテスト 優秀賞、農林水産広告賞 審査員特別賞など受賞。2009年 宣伝会議コピーライター養成講座基礎コース名古屋教室、2011年 専門コース中村禎クラス修了。三度の飯にカレーをかけるのが好き。
『コピーライター養成講座』2014年4月開講
一流を育てる実践型カリキュラム
多彩な修了生を輩出している本講座。広告クリエイティブだけでなく、インタラクティブ領域のコミュニケーション、マーケティングやメディアクリエイティブなど、さまざまな視点からコミュニケーションを構築する能力を養い、次世代のクリエイターを育てます。