「考える考え方」を抽出する
クリエーティブは、歴史である。なぜなら、それは常に新しくなくてはならないから。カンヌはじめとするアワード審査のクライテリアは、審査委員長がそれぞれなんとか新しげにしようと工夫こらすのだけれど、意味はいつも同じで、ひとことでいうと、“Freshness of Idea”。アイデアが優れて新しいかどうか。実は、それがほとんどすべて。
新しいとは、そもそも相対的な概念であって、“絶対的な新しさ”などというものは存在しない。歴史に今までなかった何かを付け加えたか。歴史の流れを裏切っているか。今までの流れと逆行しているような流れを生み出しているか、などなどが、正確に認識されてはじめて新しいとみなされる。
それ故、歴史が脳内にアーカイブされていなければ、新しいアイデアを生み出すこともできなければ、それが新しいかどうか判断することもできない。そして、おおむねこのふたつの能力によって、クリエーティブ・パースンの力量は判断される。毎回毎回ある程度確実に一定レベルの何かをアウトプットするのが、僕たちのミッションなので。
こう考えると、オリジナリティなどと軽々に言うことのおっちょこちょい加減がよくわかる。クリエーティビティなるものは、すべて歴史的コンテキストに置いてはじめて意味を持つ。“他者との相関性を持たない完璧な新しさ”などというものは存在しない。これは、広告表現はもちろんのこと、音楽、文学、映画、美術、建築…。およそ、アイデアと表現によって成り立っているものはすべて、同じからくりである。先達からの養分を受けることなく、100%自力で生み出すことは、あり得ない。
そのことは、僕たちにいささかの希望をもたらす。正確な歴史的コンテキストの受容が為されれば、そこから勝率の高い「考える考え方」を抽出すれば、なんとかなる可能性が高いということだから。
例えば、ロバート・ジョンソンがいなければヤードバーズは存在しえないし、ヤードバーズがいなければレッド・ツェッペリンは存在しえないし、レッド・ツェッペリンが存在しなければエアロスミスは存在しえない。例えば、ウッディ・ガスリーがいなければ、ボブ・ディランは存在しえないし、ボブ・ディランの“When the ships comes in”がなければ、吉田拓郎は名作“イメージの詩”を創っただろうか。ホメロスの『オデュッセイア』が存在しなければ、ジョイスの『ユリシーズ』が生まれるわけもない。ヒッチコックが発明したと思われる、これ見よがしの急激なズームは、『日曜日が待ち遠しい!』などでトリュフォーに受け継がれ、極東のCMディレクター山内健司が多用することになる。機能のさせ方はそれぞれ異なるけれど。
今までの流れを、リスペクトしつつ、感謝しつつ、そこに、明らかに今まで存在しなかったなにものかを付け加えていく。それが、すべてのジャンルで繰り返されてきた、「新しさの誕生」の原理にほかならない。ぱちぱちされるのは、その中のほんの少量の部分にすぎない。ものを創る仕事は、歴史的コンテキストをめぐるゲームであり、リスペクトというエンジンによって継承されていく。この原理は、CMプランナーなども全く同じである。
歴史といえば、大瀧詠一である。
なんだかすごく自然に、構造主義的歴史系譜学的方法論で音楽に立ち向かったひとだった。どのジャンルでも、そういう人が創るものは、傑作になりやすく、駄作になりにくい。こういう人を所有できている時期とジャンルは、とても幸福だ。「早く次のアルバムつくってくださいよ」という、ファン、および関係者からの当然の問いかけに対して、「番組で音楽史の話したり、そういうの含めてぜんぶ、音楽活動なんだよ」と答えるのが常だったという。ものすごく深いところ、高いところにいた人だったと改めて思う。
養老孟司が書いている。
「ただいま現在とは、なんと宇宙の歴史のすべてをその中に含んでいる」。
本コラムの著者、古川裕也氏の初の著書が発売!
日本を代表するクリエイティブディレクターであり、電通のクリエイティブのトップを務める古川氏が、「クリエイティブディレクション」という、今まで漠然としていた技術を初めて体系化。
『すべての仕事はクリエイティブディレクションである。』(9月5日発売)