長女の絵からキキが生まれた
大学卒業後、紀伊國屋書店で2年働いたのち、25歳で結婚。1959年に家族でブラジルに渡る機会を得た。このブラジルに滞在した約2年の経験が、結果として童話作家への扉を開くことになる。
帰国したばかりの東京は1964年のオリンピック開催に向けて新幹線や道路といったインフラ整備とともに、国際都市としての一歩を踏み出していた。東京オリンピック後も1970年には大阪万博を控え、日本の国際化はますます加速する。そんな時勢のなか、海外経験があり現地の情報に精通している人材が必要とされていたのだ。
「大学時代の恩師から『ブラジルでの経験を書いてみないか』と声をかけていただいて。私に現地でブラジル語を教えてくれたルイジンニョ君という少年のことを子ども向けに書いたノンフィクション作品が、最初のお仕事。それで書き始めたら、だんだん楽しくなっちゃって。『あれ、私、この仕事好きなんじゃないかしら?』って気づいたの」。
この作品が『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』というタイトルで出版されたのは1970年、角野さんが35歳のときだ。その後、処女作から次の作品の刊行まで7年かかったが、物語を書くのが楽しくて仕方ない角野さんはお構いなし。子育てに励みながら「コツコツと編み物や洋裁をするように」書き続ける日々が続く。そんな中、ひょんなことから生まれたのが『魔女の宅急便』のキキのモデルだ。
ヒントを得たのは、当時12歳だった長女の絵だった。「娘がね、魔女が色々なことをしている絵を描いたことがあったの。その中にホウキから赤いラジオがぶら下がっていて、三つ編みのリボンが結んであって。三日月に向かってホウキに乗って飛んでいるシーンがあったのね。これを見た時に『ラジオを聴きながら空を飛ぶ魔女』というアイデアが珍しいし、すごく面白い!と思ったのよね」。
当時、ラジオを聴きながら勉強する若者たちが増えており、彼らは「ながら族」と呼ばれていた。「娘の絵を見て、ラジオを聴きながら空を飛ぼうだなんて『ながら族』ならではの発想だなと感心してしまって。私自身は、ラジオを聴きながら何か別の作業をするなんてとてもできない!と思っていたから。今でもそれは変わらなくて、原稿を書くときは絶対に無音じゃないとだめなのよ」。
1983年に雑誌での連載をスタート。85年に出版された『魔女の宅急便』の表紙のイラストには、もちろんホウキにラジオをぶら下げたキキの姿が描かれている。
「書きたい」ことはなくならない
3月1日に公開となった実写版『魔女の宅急便』だが、角野さんは制作段階から主演女優のオーディションやロケにも立ち合った。
「もちろん、原作が好きな人にはその人なりの想像の世界があるから、なかなか実写版には満足してくれないかもしれない。でもね、今回は人間が演じるからこそ感情移入できる部分もあると思うし、キキと同じ13歳の子たちの目にどんなふうに映るか、とても楽しみ。何よりキキを演じた小芝(風花)さんが素晴らしい!将来いい女優さんになると思うわ。彼女はこの映画で”魔法”を手に入れたわね」。
映画を観たすべての人にも「魔法」を手に入れてほしいと言う角野さん。では一体、ここでいう「魔法」とは何なのだろうか?
「手に入れることで常に生き生きとしていられる、生きる力になるもの。(宣伝会議の)読者の皆さんにとっての魔法は”広告を創ること”でしょう?私にとっての魔法は”書く”ということだった。魔法はね、欲しい欲しいと思って探しあぐねても見つからない。たくさんの出会いの中で自分はこれが好きなのかも、と言えるものを見つけるには、日ごろからいろんなことに興味や好奇心を持ったり、本を読んだりと、生き方のトレーニングみたいなものをしておかないと」。
そもそも自らの意思で物語を書き始めたわけではなかった角野さん。最後に、これまで「もう書きたいものがない」「すべて書きたいことは書き切った」と思ったことはないのかと尋ねると、「ないわねぇ」とにっこり。
2009年に一連のシリーズが完結した『魔女の宅急便』だが、その後に自伝的ファンタジー『ラストラン』、そしてブラジルを舞台にした『ナーダという名の少女』を発表。現在、キキ以外の人物を主役にした『魔女の宅急便』のサイドストーリーを書き始めている。
「宣伝会議」2014年4月号誌面より抜粋