とんでもない大変革の時代
繰り返しますが、この世界には、いろんな人がいます。特にここ、ニューヨークにはとにかく世界中からいろんな人が集まってぐちゃぐちゃになりながら暮らしています。ここではそれが当たり前です。ニューヨークという街の何より愛すべき特徴は、この「多様性」とそれをみんなが当たり前だと思っている空気です。
そして私は、この特徴こそが、私たちが未来を生きていく上で必ず身につけなければならないものなのだと考えています。私たちは、実はとんでもない時代に生きているのです。ありきたりですが、「インターネット」の話です。私たちの多くはインターネットが始まった時代を生きることになってしまったのです。
同時代に生きているとなかなかわからないもんだよなあと自分でも実感するのですが、インターネットの出現って、ちょっと引いて冷静に見たら、間違いなく人類の歴史の中でも超重要な出来事で、人間社会のあり方を思いっきり転換する類のものです。間違いないです。100年後の歴史の教科書でインターネットが事件として扱われていなかったら、私の墓に私が嫌いなブロッコリーを供えてくれてもよいです。
たとえば、大昔の人類は「文字」というものをつくりました。文字はメチャクチャ便利です。人類は文字を使うことで、情報を残すことができるようになり、頑張れば距離関係なく情報を正確に伝えることができるようになりました。最近の人類は「インターネット」というものをつくりました。私はインターネットの発明は、文字の発明に匹敵するとんでもない大事件だと思います。
「言葉」「文字」「印刷」「電話」みたいに、情報を伝える方法が進化して、「インターネット」に至って究極の形になった感があります。この時代に生きていてすごく忘れがちなのは、今の時代がそういうとんでもない大変革の時代であるということです。それが何を意味するかというと、そこまでの常識に意味が無くなるということです。「今までこうだった」という前提に何にも意味が無くなってしまう、歴史的にもレアな瞬間を私たちは生きているのです。
私たちの生活や人生において、インターネットは既に劇的な変化をもたらしています。たとえば、私はいまこの記事をニューヨークのアッパーウエストサイドの古いアパートの中で書いています。書き終わったら、東京の編集部にこれをEメールなりで送らなくてはなりません。せいぜい3秒くらいで送ることができます。
インターネットが存在する時代ですから、それは全く普通の行為です。ニューヨークと東京の距離は関係ないんです。インターネット以前がどうだったか、ということを考えるとそれはもう大変だったはずです。それどころか、FacebookなりTwitterなりを開けば、地球の反対側にいる友人が今何を考えて何をやっているかがわかります。
たとえば、知り合いの結婚式の模様が、言葉だけではなく動画や写真なりでそのままリアルタイムに共有されてきます。何かのプロジェクトの打ち上げで誰がゲロを吐いた、みたいなどうでもよい情報まで知ることができてしまいます。
突撃してみたら、楽しかった