関西のことも広告のことも、何も知らなかった。
僕は福岡で生まれ、育った人間です。22歳の春に電通に入社し、大阪支社(現 関西支社)クリエーティブ局配属となったのですが、それまでは関西のことをほとんど何も知りませんでした。関西の地を踏んだのは、父親に連れていってもらった万博、それと中学の修学旅行、その2回だけ。それ以外の関西との接点といえば、毎週土曜の昼にテレビで見ていたよしもと新喜劇、それと阪神タイガースくらいだったか、と。当時、僕にとっての関西とは、テレビの向こう側にある遠い世界だったのであります。
広告のこともほとんど何も知りませんでした。クリエーティブについての知識もなかったし、クリエーティブ局を志望していたわけでもなく。入社後、「あなたはクリエーティブ局配属です」と言われたときにはとても驚いたことを憶えています。縁もゆかりもない関西の地で、何の知識もないクリエーティブの世界へ突入することになったわけですから、多少の不安はありましたが、でも、「これからおもしろいことが始まりそうだ」という気もちのほうが強かったし、「なんとかなるやろ」と能天気に考えていたように思います。
そんな自分が、35年間もこの世界でやってこられた理由はただ一つ。優秀な先輩や仲間からたくさんのことを学び、刺激を受けることができたからです。
CMの基本を学んだのは、堀井グループ。
僕がCMの基本を学んだのは、堀井グループと呼ばれていたチームです。
このチームの中心はヒットCMを連発していた堀井博次さん、田井中邦彦さん、石井達矢さんの3人で、その下に中堅・若手数名がいるという構成でした。
1998年には「堀井博次グループ全仕事」という本が出版されました。帯に書かれていたフレーズは「今世紀最後のCM曲技団。異端か正統か、天才かあほうか。ヒットヒットで30年!」。そのチームの端っこにいて、僕はCMづくりの基本を学んだのであります。
広告のことが好きで、仕事が好きで、あほなことも好きで、どんなときでも笑いながら、しつこくそしてプライドを持って仕事をする。そういう人たちの中で働くことができた自分は幸運だったと思います。しんどいこともあったけど、毎日の仕事がおもしろかったです。そのチームで僕がどんなことを学びながら広告をつくってきたのか、そういうことを中心にこの数回のコラムを書くつもりにしています。特に若い人たちに読んでもらって、広告という仕事に興味をもってもらえたらうれしいです。
広告なんて誰も見たくない。だから、工夫する。
「広告を見たい人なんて、一人もいない。そういう前提に立って企画することが大事なんや」。
ずっとそう言われながら、仕事をしてきました。堀井グループで学んだ基本中の基本だと思っています。広告は見てもらえないものだという前提に立つからこそ、じゃあどうしたら見てもらえるのか、興味をもってもらえるのか、印象に残せるのか、という工夫に入っていけるんです。
その前提に立たず、「見てもらって当たり前」というような姿勢で広告をつくってしまうと、送り手が言いたいことを一方的に言うだけの、まさに見てもらえない、何の印象も残せない、つまり効果が期待できない広告ができあがるのです。とても怖いことです。
しかも、15秒CMなんてあっという間に終わってしまいます。あなたが冷蔵庫から缶ビールを取り出してひと口飲む間に、僕たちがつくったCMはすでに終わっているのです。当然のことです。CMなんかを見るよりもおいしいビールを飲みたい。そう思うのが人間というものです。
「広告を見たい人なんていない、しかもCMはあっという間に終わってしまう。だから工夫する」。
ごく当たり前の考え方なんですが、こういうスタート地点に立てるかどうかで、ゴールは大きく違ってきます。できあがる広告はまったく違うものになるはずです。
「手を抜いたら、そこでおしまいやでえ」、「問題が起きたときは、それを解決して、さらにおもろいものにせんとあかんのや」、「金がなければ、知恵を出せ」
そんなことをしょっちゅう言われてました。そういう諸々の考え方が、日常の仕事を通じて自然に身体の中へ染み込んでいったように思います。と、話がやや暑苦しい方向に向かいつつあるところで、第一回目はおしまいにします。
次回は、「完成度より伝達度を上げよう」というような話をする予定です。
読んでくださって、ありがとうございました。