平野啓一郎×田川欣哉「ユーザーを『分人』と捉えてデザインする」

人工物と人間の接着面には何がある?

平野:デザインとエンジニアリングが分断されずに重なり合っているというのは面白い。プロダクトは、最終的に身体のどこかに帰着するものだと僕は思っています。触るものなら手(触覚)、見るものであれば目(視覚)という具合に。

スマートフォンが進化して小さく軽くなっても、最終的に手という部位に帰着せざるをえなければ、必然的にあるサイズは保持しないといけない。

田川:身体性の話は、僕らの仕事とは切り離せません。映画「2001年宇宙の旅」で、猿が骨を道具として使うことに覚醒するシーンがありますが、あれは生き物が初めて道具を手にした時の興奮であり、それは僕らがiPhoneを手にした時の興奮とほぼ同じ種類のもので、自らの身体性が拡張されることの強烈な快感なのだと思う。

身体機能を拡張するものとして広く道具という概念を捉えれば、人と道具を一体のシステムとして見て、その調和が一番よい状態になるようにデザインを考えるようになります。

ただし、人工物と人間は接合しえないので、その境界線に「インターフェース」が生じる。さっき平野さんがおっしゃったように、デザインが五感と向き合わなければならないのは、その境界線に五感が居座っているからです。

「インタラクション」という言葉もありますが、少し昔の概念だと感じるようになってきました。というのも、インタラクションは「インター+アクション」。つまり、カウントの単位が「アクション」なんです。

でも、iPhoneを指でヒュッとなぞる感じ、その途中の指への吸い付きなんかは、アクションよりも細かい単位で機械と人間が結びつく感覚があるでしょう。それがとても自然で新鮮だったから、iPhoneは受け入れられたのだと思うんです。

アクションというより、もう「つり合い」や「平衡」の感覚に近くて、よいつり合いが保たれた状態をつくれるかどうかが、デザインをする時の一つの視点になっています。

平野:以前、あるSF的な思考実験をしたことがあります。もしも地球から人類がいなくなったら、どこかの星からやってきた宇宙人は、残された人工物から人間の身体を想像できるだろうか?と。

人工物は身体に基づいて構成されています。都市は、人間の身体の裏返しです。階段や手すりといったこれまでのプロダクトは、身体の部分と一対一で対応しています。

しかし、自然はどれほど眺めていても、決して人間の身体を思い描かせない。iPhoneの電源が入るか、電波があるかどうかで、人間の形についての情報量が途轍もなく変わってきますね。

僕は人間の身体にも、デザインエンジニアリングの仕組みがあると思います。なぜなら、人間は分泌物によって五感がコントロールされる内分泌系の生き物だからです。

こうすると、ドーパミンが出て幸せを感じるとか、アドレナリンが出て興奮するという仕組みになっている。報酬系ですよね、基本的に。きっとそのうち、手や足などの物理的なインターフェースなしに、人工物の機能と身体の内分泌系が直接刺激しあうシステムみたいなものが考えられていくんだと思います。

次ページ 「「観察」は客観的なのか?ユーザー調査の落とし穴」へ続く

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