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産地や銘柄ではない、一次産品の新しい評価基準をつくった農家。
OEM生産が中心の経営から転換し、自社ブランドを立ち上げたメーカー。
それぞれのやり方で、新しいブランドをつくり、新しい販路を開拓した企業の事例を紹介します。
自社ブランドをつくり新しいお客さまと出会う
鳥取県米子市に本社を置く、1958年創業の和菓子メーカー・丸京製菓。製餡メーカーから出発したのち、40年間はOEM生産をはじめ、和菓子製造の下請けが事業の中心に。観光土産の下請けに始まり、1960年代にスーパーマーケットが登場するとプライベートブランド(PB)製品を手掛けるようになった。
そんな同社が、自社ブランドの立ち上げを構想し始めたのは1995年。3代目社長、鷲見浩生さんが就任したことがきっかけだった。「創業メンバーの高齢化により、組織の若返りを図ることになりました。当時35歳だった私が社長に就任し、新卒をはじめ若手人材を積極的に採用、社員の平均年齢は20代後半にまで若返りました。社長就任後4~5年は、従来と変わらずOEMやPBを手掛けていましたが、やがて若手社員の中から、『自分たちの名前で最終製品をつくりたい』との声が挙がるように。ちょうど、流通大手の業績悪化が言われ始めた頃でもあり、既存の販路に依存することへの危機感を感じました」と鷲見さん。価格を自社でコントロールできないOEM、PBから自社ブランドへ転換することで、利益改善の道筋をつけたい思いもあった。
そうして2002年、中長期事業計画「丸京ビジョン2010」を掲げ、これを機にOEM生産中心だった従来の事業から、自社ブランド「菓子庵 丸京」中心の経営へと舵を切った。「『鳥取県経営革新支援補助金』『とっとり発ベンチャー企業創出・育成総合支援補助金』といった補助金制度を活用して20億円の資金を調達、自社ブランド専用の工場をつくり、生産体制を確立しました。当時、自社ブランドとPBの売上高の割合は3億円・5億円でしたが、2002年を境にOEMやPBの生産は一切お断りし、自社ブランド1本に絞って製造してきました」。2008年から現在に至るまで、同社は国内・海外における「どら焼き生産量ナンバー1」の地位を確立している。
販路戦略の2本柱
OEMやPBは、価格がコントロールできない代わりに、販路は保証されていた。自社ブランドの展開にあたっては、まずは販路の確保が急務だった。和菓子は季節性が非常に強く、年末年始、春の彼岸、秋の彼岸、お盆の4シーズンは売上が伸びる。同社は、それ以外の時期の安定した売上を確保するため、大きく2つの柱を立てて販路開拓を進めた。
一つ目は、グローバル。工場の安定稼働のため、国内の需要期以外には、海外向けの商品を生産し、現地の食品スーパーで販売することにした。最初に展開したのが北米と韓国だ。「当時のアジア圏には、ジャパンブランドがほとんど浸透していませんでした。自動車や家電は日本のものも売れていましたが、食品に関しては全くと言っていいほど市場がなかった。一方で北米(アメリカ、カナダ)にはアジア系の人が3000万人も住んでいたのです。北米の人口は約4億人ですから、そのうちの10%弱。市場はあると思いました。また、小麦粉や砂糖など原料の仕入れ先として従来から交流があった韓国も、文化・風習が似ていることから、参入障壁が低かったですね」。1998年頃から、試食販売を繰り返しながら、土壌を固めていった。ここでの手応えが、自社ブランド1本に絞った経営を決断する後押しにもなったと鷲見社長。現在の輸出先は、ロンドン、パリ、ケルン、シンガポール、上海、ソウル、香港、台北、シドニー、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバーなど、15カ国にまで増えている。
二つ目は、既存の販路であるスーパーマーケットにおける商品展開の強化だ。各店舗に同社商品を陳列する常設コーナー「丸京ショップ」を設置してもらうというもので、客層などに合わせて棚割り・売り方も企画する。全国に30万店あると言われるスーパーマーケットで、通年で自社の商品を扱ってもらうための工夫である。「年間指数には波があるとは言え、常設コーナーがあるというだけで年間の売上はかなり安定します。今でこそ、流通・小売りにおけるメーカーのコーナー展開は珍しくありませんが、実は当社が業界で初めて行った試みです。業界の常識に捉われない、若手ながらのアイデアによって実現した販路開拓と言っても良いかもしれません」。2006年に300店舗だった展開先は、現在では1000店舗にまで拡大している。
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