頭で考えさせるものが奪われていき、身体で動かすものばかりになっていく
東:ただ僕は、「役立つ広告」という概念に少し疑問があるとすれば、役立つコンテンツで一番強いのはポルノだと思うんです。その実用性に依存しているメディアはたくさんあって、多くの雑誌でグラビアが載っているように、それがリアリティとしてある。そうすると、何かのコンテンツプラットフォームが初期に拡大を目指そうとすれば、ポルノ的何かを活用すればいいということにもなりかねない。「使ってもらえる」というのは、それと似ているような気がするんですよね。
須田:うん、確かにそれは言えていますね。本当にそうなのかもしれない。
東:え!?本当にそうなんですか。問題提起のつもりで言ったんですけど、その通りってことですか?
須田:使ってもらえるというのは、これだけ情報がある中でまず反応してもらうということ、ユーザーに自らアクセスしてもらうということなので、その究極を考えると、ポルノ的なものに行き着くのかなとは思うんです。確信犯的なエロを混入させることでアクセスを確保し、結果的に使う側が楽しいと思えれば、それでも良いのでは?という思いが僕にはあり、この辺りは難しいですね。
東:ポルノは、ある種の実用性と表現の境界にあるものです。実用性を追求するということが、僕にはポルノの価値みたいなものを再発見しているように見えるんです。でも一方で、ポルノは恐ろしいコンテンツでもあります。色々とバリエーションがあるように見えるけど、実は消費者の側の趣味は固定していて、各人1回消費をして、また少しだけ違うものを消費するわけじゃないですか。差異や拡張があればいいけど、それがない。つまり、ポルノの市場が恐ろしいのは、消費者がずっと同じようなものを消費するがゆえに、表現を停滞させるビジネス構造を持っているということです。だから、ポルノは、倫理的にどうこう以前に、今日のテーマであるクリエイティビティで言えば、根源的に市場が硬直的で、その点で————こういう発言は最近では“政治的に正しくない”し、ポルノじゃなくても同じだろうと反発を受けそうだけど————、表現の限界を抱えていると思うんですよね。使ってもらえるという概念で考えると、ポルノとの違いとして、もう1軸ないものかと思ってしまうんです。
廣田:ポルノ産業では表現はずっと変わらず、変わっているのはプラットフォームだけですよね。映像はそんなに変わらないのに、より直観的に使いやすくなっている(笑)。結局、エフェクティブネスが普及してそれが目的化してしまうと、頭で考えさせるものがどんどん奪われてしまい、身体で動かすものばかりになってしまう可能性もある。「クリックされた」というような結果だけがあまりにも重視されることで、広告としての文化みたいなものが失われていっている側面もあると感じます。
東:もう少し大きい概念で言えば、昔ならイデオロギーで動いていたものが、今はイデオロギーが信じられていなくて、例えば“楽しい”というものだけで動いてしまう。昨今のデモの動員なんかもその典型ですよ。イデオロギーありきではなく、楽しいから参加する、みたいな。
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東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
須田和博(すだ・かずひろ)
博報堂 iディレクション局 シニアクリエイティブディレクター。1990年、多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、博報堂に入社。アートディレクター、CMプランナーを経て、2005年よりインタラクティブ領域へ。2014年、同社のデジタル領域・ダイレクト領域などに強みを持つ社内クリエイターを集め、次世代型クリエイティブを開発する社内横断プロジェクト「スダラボ」を発足。著書に『使ってもらえる広告』(アスキー新書)。
廣田周作(ひろた・しゅうさく)
電通 コミュニケーション・デザイナー。電通に入社後、ビッグデータ解析などを専門としリサーチャーとしてのキャリアを積む。2011年から、プランナーへ転向し、次世代のプランナーを育成するチーム「電通モダン・コミュニケーション・ラボ」を主宰。主にデジタル領域を中心に、様々な企業の事業のコンサルティングやコミュニケーション戦略の立案に従事する。著書に『SHARED VISION』(宣伝会議)。
<画像提供元:ゲンロンカフェ>