——でも、アワードの審査員はたくさんやっていますよね。この前もラジオを聴いていたら、ふかわりょうさんが箭内さんに、「審査員をされること、多いですよね。審査に箭内さんが入っていれば安心っていう感じがあります」とおっしゃっていました。
どうしてなんでしょうね。自由と平等の象徴だったりするんでしょうか?(笑) 広告の世界の人間だけど、応募はしない審査員っていう。そんな審査員がひとり入っているのも、ある種、民主主義の象徴なんじゃない?って言われたことはあります。
それに、自分が審査をしている会場に、もし自分がつくった広告があったら、照れるというか、恥ずかしいというか、ドキドキしてしまわないですか?僕は絶対、自分に投票できない。だから応募しないほうが気が楽。逃げてるよね(笑)。
昔、ある審査会で「自分の作品に票を入れてはいけないというのは、逆にフェアじゃない」と言った審査員の方がいたけれど。
——箭内さんは「アンチ広告賞」というスタンスなのかなと思っていました、賞に背を向けているのかなと…。
否定しているわけじゃない。むしろ背を向けられているほう(笑)。賞は、憧れてもいるし、素晴らしいと思っています。でも自分には獲れないと思うし、もはや獲りたいわけでもない。そんな風に言うと負け惜しみに聞こえるかな(笑)。
——では、どうやって「箭内道彦」はデビューしたんですか?
デビューした、というのかはよくわからないけれど、ある程度、自分のスタンスで仕事ができるようになるまでは、ずいぶん時間がかかりました。そもそも、賞はものすごく獲りたかった。写真、残ってないかな…博報堂入社1年目の僕の机の目の前には「めざせADC!」ってサインペンででっかく書いて貼っていたからね。
とにかくADC賞が獲りたかった。喉から手が出るほど欲しかった。
——確かに箭内さんは、目の前の目標に向かって全力疾走するタイプかもしれません。「三浪しても絶対、東京藝大」というように…失礼だったらすみません。
(笑)。ADC賞を獲ることで、次の仕事が来ると思っていたから。だから最初の頃は、自分がデザイナーなのか、アートディレクター(AD)なのか、というのがすごく重要で。上にADがいる仕事は「どうせADCに出せないや」ってモチベーションが下がったりしていました。
やっぱり、先輩や同期や後輩がどんどん賞を獲っていって、羨ましいというか、妬ましいというか、到底平常心じゃいられない(笑)、そんな時代が長く続きましたね。
転機は、1995年頃だったかな。浅野忠信さんが出演した明治乳業(現・明治)の「カフェレシオ」のテレビCMで、『宣伝会議』のインタビューを初めて受けた。編集の方に「浅野さんの演技はどうでした?」と聞かれて、「とっても自然でした」って答えたんだけど、それを読んだある人に「お前のこの発言つまらなすぎだろ~。何も言ってないのと同じだよ」って言われて。広告業界に向けて発信できるチャンスを無為に使ってしまった、メディアってすごく大事だなって、強烈に反省したんです。
だからそれからは、常に思っていることの10倍くらい激しいことを言うようにした。
『宣伝会議』でも『広告批評』でも、『ブレーン』でも『コマーシャルフォト』でも。「広告界に巣喰った固定観念なんかクソくらえ」とか、「そんなだから広告業界はダメなんだ!」とかね。そしたらそのうち、「よくわかんないけど、こいつ、なんだか面白そうだから」と言って、仕事をくれる人が出てきた。
だから僕は「メディア型」、メディアを通じて名前と存在が知られるようになっていったんです。業界誌から現れたんだよね。広告界で唯一、と言っていいかも知れない。賞はひとつも獲っていないし、世の中で爆発的な話題になったわけでもない。いい仕事が集中する花形部署に配属されてチャンスを手にしたわけでもない。
さらに、当時は「自分から仕事を取りに行く」ということを、とにかくいろいろな形で試していました。例えば、「営業パトロール」。先輩の木村透さんと手分けして、営業フロアを回り続けたんです。
「なんかないですか?」「なんかないですか?」「なんでもしますよ~」って(笑)。担当もしていなかったパルコに、小包でデモCMを送りつけたのもこの頃です。すぐに当時の宣伝部長から電話がかかってきた。「こんなこと、されたことない。嬉しかったよ!」って。
その細い糸がつながって、数年後に広島パルコの仕事が来ました。パルコの仕事は、いまも続いています。
新しいアワードをつくる、ということもやってみました。社内の同期の仲間3人で、「既存の賞ではなく、どうせなら新しい賞をつくって、渡す側になろうぜ」といって、毎月1回、自分たちの独自の視点で広告制作者を表彰する「YKK賞」というアワードをつくりました。
「YKK」っていうのは、かつて自民党で盟友同志だったY(山崎拓)、K(加藤紘一)、K(小泉純一郎)の頭文字からなる同盟にかけて、Y(箭内)、K(河野)、K(小安藤)でYKK。小安藤は本名じゃないけどね(笑)。
第1回の受賞者は、当時アサヒ スーパードライを担当していて、賞というよりビジネス派だった博報堂のクリエイティブディレクター・小沢正光さん。第2回以降は、電通の澤本嘉光さんだったり、女優の中山美穂さんだったり。所属会社も立場も関係なく、自分たちが賞を渡したい人にトロフィーを授与してまわりました。すると、みんな喜んでくれるんです。「若い奴らが賞をくれた」って。
あとは、金髪にして、「見た目は派手なのに、つくっているものがイマイチだったらカッコ悪い」という風に、自分を追いつめたりもしました。その頃、当時の取締役だった多田亮三さんは廊下ですれ違うたび、「お前さ、なんなんだその格好は。格好より、つくるもので目立てよ!」と、いつも笑いながら声をかけてくれていました。
何とか、穴から這い出したい。その一心でいろいろ回り道をしながら、だんだんと、つくるもので目立つようになっていきました。時間がかかるタイプなんだと思います。大体のことは、他の人よりもずっと多くの時間をかけて、なんとか叶えてきました。藝大は、4回目の受験でようやく合格したし、高校時代に才能がないからと泣く泣く諦めようとした音楽は、46歳になって紅白歌合戦に出場することができた。
でもADC賞だけは、諦めてしまったんですよね。自分でエントリーしなければ受賞できないものですから、「エントリーしなくなった=諦めた」ということになってしまう。