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サン・アドに入るまで
——サン・アドに入るまでのキャリアを教えてください。
私は早くに広告業界に入ったので、業界経験はもうすぐ30周年です。高校を出てから、広告業界のことを勉強するための専門学校へ通い、コピーライターに興味を持ちました。
専門学校を卒業し、働き出した頃の私は、コピーライターの高みに駆け上がろうという思いが強かったのですが、そのような私の思いと裏腹に、最初に入社した会社は1年で辞めてしまいました。その後、知り合いのコピーライターの先生から、ペルーやインカへ行くツアーを組む、という話があり、私もそれらの国に興味があったのでお供させていただくことになりました。
服飾デザイナーやアパレル・テキスタイル業界の人、女優、今では誰もが知っている有名な作詞家、著名イラストレーターも参加していました。たまたまそういったメンバーが集まっただけのようですが、その人たちとマチュピチュなども含め、1カ月くらい各地を一緒に回りました。私は最年少だったので、みんなに可愛がってもらい、いい想い出です。
帰国後に、その時のメンバーにいた舞台照明会社の役員の方にアルバイトとして雇っていただきました。そこで照明も勉強したのですが、やっぱり広告の仕事がいいと思い、その半年後くらいに、今は無くなってしまったマグナという会社に転職しました。
そこで5年くらい仕事をして、辞めた年にTCC新人賞をとりました。それで1年くらいフリーランスをしていたのですが、27歳の時に当時サン・アドのADをしていた先輩から「コピーライターを募集する」と聞いて、応募したのです。
当時の私は、銀座のとある会社の一部を間借りしていたので、受からなかったら自分の事務所を立てると決めていました。「まあ、踏ん切りがつくので受けてみるね」と言って、受けたら受かったというのが、サン・アドに入るまでの経緯です。それから今、20年ですね。
私たちの世代で広告の仕事をしている人たちは、「同じ会社に長くいる」という考えが、あまりありませんでした。最終地点ではフリーを目指している人が多かった。それこそ岩崎俊一さんだとか、有名な人もたくさんいたので、そこに到達しなければ、という思いで奮闘していました。
転々といろいろな所で経験するのがステップアップとして当たり前でしたから、会社を移ることは善しという風潮だったのですね。みんな、「得るものを得たら次」というように、会社を通過点としか思っていなかったから(笑)、私もまさかこんなに長くサン・アドにいるとは思いませんでした。
きっかけは身内の子
——結婚と出産はどのようなタイミングでしたか。
結婚はサン・アドに入ってから1年後でした。旦那とは元々友達同士で、付き合い始めたのはもう少し前からです。当時は、仕事が楽しくてしょうがなかったですし、本当に毎晩飲んでいたので結婚する気はあまりありませんでした。夜2時に仕事が終わってもそこから飲みに行くぞ、というノリでしたから。
「家庭の生活感」みたいなものも、私にはありませんでした。「結婚するならこの人かな」と思い始めていた時に、「観念しろ」と言われて、「そうだね」と、結婚することになりました(笑)。結婚後も、しばらく2人で遊びたかったのと、仕事が楽しかったので、子どものことまでは考えていませんでした。
外で子どもを見ていても、自分が産むというリアルなことまでは考えられず、心が動くことは特に無かったのですが、姉に子どもが産まれたことが大きなきっかけになりました。姪っ子を見ていたら「子ども、かわいいかも」と思えてきたのです。姉の子どもと遊んでいる時に、「可愛いね」という話を旦那さんともしていて、だんだん歳もとっちゃうし、「そろそろ欲しいかもね」という話になり、結婚してから4年後に長男を産みました。
その後、2人目が生まれたのは少し空いた8年後です。その翌年、会社に戻ってきた頃に3人目の妊娠が発覚。復帰して間もなかったので、本調子にならないまま、また産休に入りました。
続きは、『しゅふクリ・ママクリ』「「制度も自分も徐々に適応」へ続く」へ続く
笠原千昌
サン・アド クリエイティブディレクター、コピーライター。
これまでの仕事に、サントリーウーロン茶プレミアムクリア「空色のウーロン茶」/studioCLIP「今日の日を、忘れられない一日 .に。」/AirBuggy 「おでかけは、冒険だ。」/une nana cool「Going Girls Way」/おやつキングなど。