不動産のプロと広告のプロの、分かれ道。
「おい、よかったな!赤城くんの例のコピー、このJJにも出てるぞ!」
上司の言葉に心が躍った。「JJ」に掲載だって?例のとは、積水ハウスの土地活用のあの広告だな…。社内でちょいちょい褒められてたやつだ。ふっはっはっ、そうか「JJ」か…俺もここまで来たんだな…。コピーライターになりたくて、なりたくて、でも新卒の俺をコピーライターとして採用してくれたのは、不動産広告ほぼ100%のこのSという代理店だけで。それでも大喜びで入社して、もがきながらコピーをひねり出し続けて、数ヶ月。
そうか、そうですか…女子大生のバイブル的なファッション雑誌、あの「JJ」に、俺のつくった広告がね。いや待てよ…何か変じゃないか?だって、その広告は、土地活用のお堅い内容だぞ。どっちかっつーと「日経マネー」とかに掲載されてるやつだぞ。そんな広告が、なぜ、あの華やかな「JJ」に…?
「あのぅ…女子大生も土地活用とか、するんでしょうか?JJって…」
「JJって言やあ、ウチの業界じゃ、住宅情報じゃないか、赤城くん!」
早く業界用語、覚えろよワカゾー…という感じで手渡された不動産広告業界の「JJ」は、ズシリと重かった。
「じゅうたく…じょうほう…のことなんですか…JJって」
目眩を覚えながら、パラパラとめくってみた。この業界ではメイン媒体と呼ばれているそうだ。時刻表みたいな分厚い誌面には、ありとあらゆる物件情報がビッシリと載っている。その合間にある広告ページに、俺の土地活用のコピーが確かにあった。
「財産の上に、財産を築く」というキャッチフレーズは、今、振り返れば、お子様ランチみたいに未熟なコピーだが、駆け出しの俺にとっては大事なコピーだった。「憧憬の丘に、終の住処を」的な、いわゆる不動産広告っぽいコピーは絶対に書きたくなくて。そうじゃないやつを、ようやく書けた!と思っていた俺の真の処女作的なコピーだったのに、あぁ…。
そんな「JJショック」以降、俺は、心を決めた。このままでは、広告のプロではなく、不動産のプロになってしまう。一刻も早く、ここを飛び出さなくては!
それからすぐに、その年のコピー年鑑(ウルトラマンの表紙のやつ)を買って、コピーを猛勉強(その代理店には、コピー年鑑が一冊も置いてなかったのだ)。仕事の合間をぬって、宣伝会議コピーライター養成講座へ。本来、コピーライターになるために通うその講座に、俺は、コピーライターになってしまってから通い始めたのだ。
現役のコピーライターということで基礎講座は免除。後の恩師となる故・梅本洋一先生のクラスで、コピーを教わった。梅本さんのご縁から、アドビジョンという制作会社への転職の道が開けた。
新卒入社した広告代理店を、わずか2年で辞めたその足で、新天地へと向かった。月島から入船へ。希望の橋を、身の回りの物がつまったダンボール箱を抱えながら渡った。その先に地獄のような日々が待っているとは夢にも思わなかった。24歳の春だった。