お金の勘定にしてもおなじです。アメリカではレストランなどのサービスにはチップを払う習慣があります。チップは基本的に支払う方の感覚に任せたエチケットなので絶対的な数値や決まりはありません。だいたい合計金額の2割か、そこから若干引いた額を支払っているようです。その際に多くの場合セント単位は切り上げ(もしくは切り下げ)ます。例えばお会計が$18.50だとしたら、きりをよく$3.50をチップに合計$22とするのが多いようです。少なくともそういう「感覚的」な計算が一般的です。マニュアルやルールに慣れてしまった日本人にはとても戸惑う習慣です。
お金に関してもうひとつ例を挙げると、コンビニのレジには誰かが置いていった1セント硬貨がトレイに置いてあり、ちょっと小銭が足りない時にそれを勝手に使ってお会計できます。アメリカは小銭入れを持ち歩く習慣がほとんどないので、お釣りで小銭をもらうとチップとして渡してしまうか、このトレイに置いていく人が多いです。ことお金に関してはすごく正確に、かつ厳格に取り扱う日本からすると、かなり驚きのカルチャーでした。
ただ慣れてくると、こういう感覚的な側面もそれはそれで好きになってきました。大雑把ではあるけれど、良く言えば細いことにとらわれすぎない寛容的な感覚。完璧を求めるあまりに調整を繰り返して身動きが取れない状況に陥るよりは、まぁこんな感じだよねと感覚に任せてみる。そういうアメリカンなカジュアルさが、往々にしてものごとをスムースにすすめるのではないのかと。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」にて、西欧化の波によって光と影の「おぼろげ」な境にみる日本の美的感覚が失われたと嘆きました。きっと尺貫法からメートル法への移行もそのひとつでしょう。季節を詠む俳句のように、本来「感覚」が日本の美意識の単位でした。逆説的かもしれませんが、もしかするとその失いつつある日本の古来の美的感覚をアメリカ文化の中で再発見したのかもしれません。
デザインや表現の世界では「神は細部に宿る」と言いますが、誤解を恐れずに言えば、神は細部に宿らないと最近は感じるようになりました。いや、宿るんだけど、神は全体にも宿るんじゃないかと。ピクセルパーフェクトのデザインは重要だけど、ピクセル単位でいじることに没頭するあまり、そもそものユーザー体験を忘れては本末転倒です。うんちくが多いラーメン屋さんも、美味いラーメンがあってはじめてそのうんちくが光ります。
細いことに正確になるのはとても重要ですが、俯瞰的にものごとを洞察する、こういう感覚的な部分もとても重要です。細い動作をエクセキュートする筋肉と、それを感覚的に操作する能力。このふたつを上手に使いこなすことで新たな価値観を生み出せるのではないでしょうか。その2つの感覚を日本文化はその歴史を通じて秘めて持ち合わせているのではと、僕は感じています。
久しぶりの日本での里帰りを終えてサンフランシスコに帰ってくると、サンフランシスコにもひんやりとした冬が到来していました。お土産でいっぱいのスーツケースと時差ぼけの子供を抱え家路へと急ぐ。片側5車線のだだっ広いフリーウェイから見るその景色を目の前に、異国の地へ再びやってきた緊張感と、それと同時に帰ってきたとほっとする安堵感が入り混じる。さあ日本での単位の感覚ネジを巻き直し、また一年頑張ろう。