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皆さんの家には「執事」は、いらっしゃいますでしょうか。私の家にはおりません。執事というと、時代ものの映画や小説のなかでしか、私は見たことがないのですが、そんな物語のなかの執事でも特に印象的なのが、ロシアの小説家・トルストイの作品『アンナ・カレーニナ』に登場する、主人公の兄、オブロンスキーの執事であるマトヴェイです。オブロンスキーは公爵で政府の高官でもあるので、モスクワに豪奢な邸宅を構えています。執事を雇っているだけでなく、毎朝お抱えの理髪師に自宅の化粧室でひげを剃らせたりもしています。
物語はそんなひげ剃りのシーンで幕を開けます。マトヴェイは椅子に腰掛けた主人の二、三歩後ろ、鏡越しに顔を合わせることができる位置に起立しています。それゆえオブロンスキーは、彼に話しかけるのに顔を上げたり首をひねったりする必要はなく、例えば妹が旦那を伴わず一人で来訪することを伝える際は、ただ指を一本立てれば良く、何より必要とあれば彼の気配を殺して手紙や思索に集中することができるのです。このトルストイ的な世界観にあっては、優秀な執事の第一条件は、いかなるときも主人の邪魔をしないことです。
今日ではスマートフォンとインターネットが、ある意味、我々の執事のようなものと言えるでしょう。朝一番で知人・友人の近況を知らせてくれ、手紙を届けてくれ、車を手配してくれ、一声かければ必要な情報を探し出してきてくれます。
しかし、この執事にいかに事務処理能力があっても、トルストイの時代にあっては落第です。なぜなら、我々の邪魔をするからです。友人からの重要な手紙を読み耽っていると、突然ノックなしで書斎に入り込んできて、こちらの状況も考えずに、ご主人様、ご主人様、と声をかけてきます。顔を上げ、何かと訪ねれば、お友達の岸本様がこの前のご主人の手紙について「いいね!」とおっしゃっていました、などと他愛もないことを言ってきます。ごく控えめに言っても、イラっとくるでしょう。そんなことは後にしてくれ、と。
ところが今日、我々はその「邪魔(interruption)」をむしろ歓迎します。FacebookやLINEの通知機能は、プッシュ通知であればなおさら、本来邪魔であるはずです。しかし、我々は無意識にそれらを待っていることがないでしょうか。アメリカの作家、ニコラス・カーは、その著書『The Shallows(ザ・シャローズ)』(邦訳:『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』青土社刊)の中で以下のように述べました。
“We want to be interrupted, because each interruption brings us a valuable piece of information”
「我々はむしろ、邪魔されたがっている。なぜならばインターネットにおける邪魔は、同時に有益な情報のカケラでもあるからだ。」
こうしてインターネットにおいては、無意識に邪魔が歓迎されるようになり、その反面、集中状態が忌避されるようになるのです。書斎で哲学書を耽読しているときのようにとても集中していると、有益な情報のカケラでありうるさまざまな邪魔に注意が向かなくなってしまうのです。その結果として、インターネット時代においては、人々の思考がどんどん「shallow(薄っぺら)」になっていく、というのが、ニコラス・カーの主張ですが、このこと自体の是非は本稿では論じません。