【前回コラム】「第1回・小谷正一(歴史に名を遺す伝説的プロデューサー)」はこちら
先日発売した『日本の企画者たち』(宣伝会議刊)は、広告・メディア・コンテンツ界の礎を築いた93人の列伝です。なにしろ今日の日本をつくってきた飛びっきりの企画者たちの秘術のエッセンスが披露されていて、壮観です。読者は多くのヒントや心構えそして勇気を受け取ることでしょう。今回は本に収録できなかった人のお話のさわりをアドタイ読者のため特別に紹介いたしましょう。いわば「日本の企画者たち番外編」です。
前回は“史上最強のプロデューサー”といわれた小谷正一を紹介しましたが、今回の藤田潔(1929年~)は、名実ともに小谷正一の後を継ぐ日本の代表的プロデューサーです。藤田が早稲田大学を卒業し、ラジオテレビセンターという会社に入社した時、面接試験を担当したのが小谷でした。藤田は自著『テレビ快男児』に記しています。「私がこの世界に入り、そして現在まで50数年続けてこられたのは、小谷正一さんに出会ったおかげです。新入社員で小谷さんというすごいプロデューサーに接し、間近で仕事を見ながらやって来たことが、私にとっては大変幸せなことでした」。
小谷が1995年2月、ソ連からヴァイオリニスト、オイストラッフを招聘した時、1カ月の日本滞在中にオイストラッフの付人兼マネジャーという役割を新入社員の藤田に命じました。言葉の通じない世界的演奏家とひと月の間、寝食を共にすることが藤田の最初の大仕事になりました。小谷は藤田の進取の気質、誠実で物怖じしない人柄を見て大事なこの仕事をまかせたのです。この大仕事をやり切った藤田潔は30歳で独立し、ビデオ・プロモーションを設立します。
藤田ならではの仕事の第1は、1965年、日本のアニメーション番組「鉄腕アトム」をアメリカNBCへ販売したことです。それまで映画もテレビもアメリカの作品を買うばかりで売ることを考える人がいませんでした。藤田は初めてアメリカのテレビ局に日本のコンテンツを売り込み、成功しました。「鉄腕アトム」が日本のアニメ輸出第1号となったのです。
藤田の仕事の第2は、深夜番組の先駆けとなった1965年開始の「11PM」の企画です。藤田がアメリカの深夜番組「トゥナイトショー」を参考に企画し、日本テレビ・井原高忠プロデューサーの尽力で実現しました。それまで放送していなかった夜11時台という不毛の時間を開拓する試みであり、遊び心いっぱいの“夜のおとなのテレビ文化”を創造したのです。初代司会者・小島正雄の急逝により大橋巨泉がメインキャスターになり、大阪の藤本義一とともに人気を集めました。この番組の成功で各放送局も続々この時間帯に放送を拡げるようになりました。その後、「11PM」は25年続く長寿番組となりました。
藤田らしい仕事の第3は、1976年からスタートしたスポーツ番組初の衛星生中継「マスターズゴルフ」の放送です。それまで外国のスポーツはほとんど録画で放送されており「マスターズ」もTBSが約2週間遅れで放送していました。藤田は「スポーツはテレビで生中継してこそ面白い」という弟の提案でTBSに話を持ち込みましたが、アメリカ・オーガスタとの時差で生放送だと日本では朝4時か5時の放送になります。こんな時間に誰が見るのか、と局からは冷たくあしらわれ、藤田は自分の会社で買い切ることでやっと「マスターズ」生中継にこぎつけました。しかしスポンサーのほうが敏感に反応し、すぐCM枠全部が埋まりました。人々の生活時間も変化しており、この早朝番組は放送されると評判となりスポンサーからも喜ばれたのです。「マスターズ」は30数年TBSで独占中継を続けています。
藤田の仕事の第4は、1981年からの「バチカン・システィーナ礼拝堂修復特別番組」の実施です。日本テレビがシスティーナ礼拝堂修復事業を全面的に支援することになり、そのプロセスをテレビドキュメンタリーとして制作し年1回放送する番組セールスをカトリック信者である藤田が受け持ったのです。安田火災(現・損保ジャパン日本興亜)がスポンサーになり、この意義深い番組は多くの支持を得て、修復完成まで16年間放送されました。ローマ法王と2度も謁見できたのは藤田にとって忘れられぬ喜びとなりました。
藤田の仕事の第5は、1996年から始まった「世界遺産」です。当時、世界遺産はポピュラーではなく、その意味や価値を知る人は日本にはあまりいませんでした。これをどのようにテレビ番組にするか、藤田は旧知の筑紫哲也に相談し、TBSの「ニュース23」で取り上げてもらって好評を得ました。藤田はレギュラー番組になると確信し、「世界遺産」の放送がTBSで始まります。第1回はペルーの「マチュピチュ遺跡」です。質の高い内容で20年にわたり今日も継続しています。
藤田の仕事はこの他にも数多くありますが、一貫しているのは“視聴質”路線です。藤田は、視聴率よりも番組の質と内容を大事にします。日本のテレビのためには「感動と悦び」を見る人にあたえることがなにより大切だと考えます。藤田の仕事は、「日本初」のものが多く、それまで誰もやらなかったことに果敢に取り組んでいます。21世紀のテレビの在り方を追求するのが藤田の果てしなき挑戦のようです。