昭和23年(1948年)、「スタイルブック」は似たようなスタイル誌が増えたため売れなくなり、鎮子は新しい雑誌をつくろうと考えます。「美しい暮しの手帖 第1号 新しい婦人雑誌」が同年9月20日に発売されました。(「新しい婦人雑誌」は第6号でやめ、「美しい」は第22号でやめ、今日の『暮しの手帖』になりました)
これは あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか 一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮しの手帖です
花森安治の書いたメッセージは、この雑誌の精神を詩的に表しており、今日にいたるまで「暮しの手帖」の扉に掲げられています。名や実績のある出版社でないため一流作家、文化人に「暮らし」についての原稿を依頼するのは至難のわざでした。花森が選ぶ今を時めく作家、学者、研究者たちに鎮子と妹の芳子が手分けして原稿のお願いに行く。川端康成、高見順、里見弴、大仏次郎、志賀直哉、池田成彬、幸田文、小倉遊亀、三島由紀夫、梅原龍三郎、安井曾太郎、三岸節子はじめ超一流の人々に快く引き受けてもらえたのは、鎮子・芳子姉妹の人並外れた「人たらし」の技によるものでしょう。
編集企画の「商品テスト」は「暮しの手帖」の大事な柱で、第26号から始まりました。第1回は「実際に使ってみてどうだったか -日用品のテスト報告そのⅠ」。商品は小、中学生用ソックスで、木綿とウーリー・ナイロンの22種の比較テストだった。
「暮しの手帖」の「商品テスト」はそれまでいろいろな所で行われていたテストとは違うものです。取り上げる商品の選び方、テストの方法、テストの目的すべてが実際に使う人の立場や状況で行われます。製造する企業でもそのやり方ではテストしていなのです。たとえばミシンの商品テストでは、メーカーは機械のから回しで部品の耐久力を試験していましたが、「暮しの手帖」では針に糸を通し、布を1万メートル縫ってテストしました。ベビーカーでは、赤ちゃんと同じ重さの人形を乗せて100キロ押して歩きました。10キロで車輪が故障したり、20キロで柄の具合が悪くなったりするものが出てきました。
「作っている人たちが命がけで作っているものを評価するのだから、こちらも全力でやる」。実際に使う立場に立って、丈夫で長持ちする良い製品を選ぶ。人々が「快適な暮らしのために欲しい」商品を対象にしました。「少しでも、よい商品を作ってほしい。それが、この日用品テストのねがいである」と花森は記しています。
よく知られていることですが、「暮しの手帖」には広告が入っていません。花森安治は「暮しの手帖」100号(昭和44年・1969年)の「商品テスト入門」の中で広告を載せない理由を記しています。
「理由は二つ。一つは、編集者として、表紙から裏表紙まで全部の頁を自分の手の中に握っていたい。広告は土足で踏み込んでくるようなもの。そんなことに耐えられない。もう一つは、広告をのせることで、スポンサーの圧力がかかる、それは絶対に困る。<商品テスト>は絶対にヒモつきであってはならない。」
そして一方では、「商品テストを“商品”にするような雑誌にしてはいけない」とも仲間に語っていました。実名をあげ、自分たちで実際に使用してデータを積み上げる地道な商品テストこそが「暮しの手帖」の生命です。
昭和31年(1956年)、「花森安治と『暮しの手帖』編集部」は第4回菊池寛賞を受賞しました。受賞理由は「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」です。「暮しの手帖」は、今日も独創的な雑誌として多くの読者を惹きつけています。
こういったことを知っていると「とと姉ちゃん」もより面白く観られるかもしれませんね。