落合陽一×菅野薫「『現代の魔法使い』が想像する未来と広告」【後編】

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メディアアーティストであり、筑波大学助教として最新のテクノロジー開発に取り組む研究者である落合陽一さん。自らの会社ピクシーダストでは、ものづくりなどのビジネスにも取り組み、最近では広告ビジネスの研究開発もスタートさせている。近著『魔法の世紀』では、人々がメディアの中の現実を共有する「映像の世紀」から、メディア環境そのものに人間の生活や社会が溶け込んだ「魔法の世紀」がやってくると看破し、独特のハイパーな語り口や、先進的な未来の捉え方、明快なビジョンで注目を集めている。今回の電通デザイントークは、電通 クリエーティブ・テクノロジストの菅野薫さんが聞き役に指名され、落合さんが考える「魔法の世紀」について、「現代の魔法使い」と称される落合さん自身にひもといてもらう。その後編をお届けする。

 

コンピュータと人間が一体化した世界「デジタルネイチャー」とは?

落合:僕の生涯をかけた目標のひとつは、映像でも物質でもない、その間にあるホログラムのようなものによって、人間の芸術に関する価値観をアップデートすることです。そのとき、コンピューティングは裏に隠れ、コンピュータがシミュレーションしたものが、人間が目にしている物質世界に出てきます。どこまでが自分自身の身体なのか、アナログなものなのか、ほぼ区別がつかないような世界になっていくはずです。それが「魔法の世紀」を生きているということじゃないかと思っています。その基礎技術を作ることが、僕の今後10〜20年の課題です。

そのために、筑波大に「デジタルネイチャー」という研究室を作りました。今は自然と人工物、人間とコンピュータ、人間と環境が分かれていますが、今後全部同じ記述のされ方、解像度になっていく。そうすると、やがて精神や身体やデータや空間が計算機によって統一的に記述されていく環境が生まれるはずです。僕はそれをデジタルネイチャーと呼ぶことにし、研究室の名前にしたんです。

ここで言うデジタルは、これまでの「離散的な」という意味ではありません。「計数的な自然」という意味です。コンピュータの中に観測した物のデータがあって、そのデータからわれわれの精神や物理世界がそのままコピーされ、シャドーとして存在するような(超)自然空間世界がそのうち存在するようになるはずです。そうなると、「今日○○さんが不機嫌なのは、データ的にこういう理由だからだろう」と分かるようになります。

社会学者のマックス・ウェーバーはかつて、社会に科学が浸透するさまを「脱魔術化」と表現しました。例えば物が腐る理由が分からなかった時代には、火はけがれを落とすという魔術的な理由で使われていました。しかし、パスツールが腐るメカニズムを解明して以降は、火は物を腐らせる微生物を殺すために使うのだと認識が変わりました。そして1981年に社会批評家のモリス・バーマンは、あまりに高度で複雑化した現代社会では「再魔術化」が進むと指摘しました。なぜそれが起こるか分からない、仕組みが分からないまま人々が生活しているのが現代社会だ、という指摘です。『魔法の世紀』では、この「再魔術化」がコンピュータによってより本格化していくと指摘しています。何かどう動いているか分からなくても、Siriさんは今日も働いているし、グーグルマップは元気に動いていますもんね。

菅野:コンピュータによって世の中がブラックボックス化するということですか。

落合:はい。その最たる例がAPI社会です。グーグルのAPIをアマゾンに投げて、それをアンドロイドに投げて…と次から次へとつないでいるけれど、APIの中は誰も分かっていない。だから最終的な処理がどうすれば早くなるのかは、もはや誰にも分からない。そういう世界のキーワードが「魔法化」で、魔法化されたものには特徴的な性質が出てくるだろうと書いたのがこの本です。

菅野:落合さんは大学の研究室でリサーチとしてやっている部分と、アートとしてやっている部分とが越境していますよね。その中で“ブラックボックス化している”と定義することは、研究と背反しないんですか?

落合:僕が理系的に研究しているのはブラックボックスの外側です。そして、それがブラックボックス化する必然について文系的に研究しています。メディアがよく勘違いするのですが、自分は魔法の研究をしているのではなくて、魔法を構成するもの自体を研究しているのです。その傍らで魔法とは何かを研究しています。

昔はデカルト的自然観があり、人間が自然と対峙していました。人間は唯一の知的生命だったので「我思う故に我あり」だったわけです。それが今は「我データ故我コピーか」になっている。人間があらゆる自然現象をコンピュータを経由して理解するようになった結果、人間主体の社会ではなく、コンピュータ主体の社会が作られ始めているんです。

菅野:人間の主観を中心に見るのか、デジタル主導で見るのか。落合さんは後者なんですね。

落合:そうです。インターネットによって形作られた世界の中で、全体性と部品性の間でわれわれは何を考えながら生きていくのだろう? そこにとても興味があって。人間の価値観は環境依存なので。

ざっくりこれまでの話をまとめましょうか。リクルートのAI研究所の石山洸さんがこの前言っていたんですけど、今、僕たちは「マルチラリティ」(段階的人工知能化)の時代を生きています。ひとつの価値観によってわれわれの価値観が一斉にアップデートされる「シンギュラリティ」ではなく、一人ひとりが別々のことを考えていている、大きく言えばマスが存在しない時代です。われわれはリアルの中では交差せず、唯一の現実のサブセットの中で生きるようになるはずなんです。こうした中で、メディアアートを作る意味をよく聞かれます。僕は、次のプラットフォームに行くための抵抗だと思っています。グーグルのVRがすごいと言われていますが、そのVRが生み出す世界のイメージを提示することが、テクノロジーアートや、僕がやっているコンテンツを作らないメディアアートみたいなものが持っている役割だと思います。

菅野:コンテンツが内包されるのではなく、コンテンツを作らないという自覚を持ってやっているということなんですね。

落合:そうです。むしろコンテンツとプラットフォームが不可分なものを作りたいんです。それはメディアアートと呼ばれたり、発明とも呼ばれます。エジソンは蓄音機を音楽に使うことに最初は反対しました。「音楽は生で聞く方がいい」と。そういうこだわりを内包したものが作品=メディアアートです。そのこだわりがなくなると、蓄音機は完全にプラットフォーム化して普及します。それは作品としての価値が下がったのではなく、作品の価値がユビキタス的になり、世界中にインストールされて文化的な作品になったとも捉えられます。そう考えると、メディアアートの文脈は大きく広がっていきます。つまり、媒体芸術の保存先を社会と考えればいい。

次ページ 「「魔法の世紀」に、広告会社の仕事はどう変わるか」へ続く

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