「CMのプロ」が広告業界41年目にして今思うこと(ゲスト:黒須美彦さん)【前編】

博報堂の面接に落ちた4時間後に合格の連絡が・・・

中村:黒須さんは権八さんと同じシンガタという会社で、手がけられた作品はソニーのプレイステーションの「いくぜ100万台」、僕らの世代だとみんなが真似をしたエステティックTBCの「ナオミよ」、広末涼子のポケベル。最近では、金麦やドコモダケを手掛けられています。つい先ほども権八さんと黒須さんは一緒にプレゼンをしてきたという噂が。

権八:そうです。一緒に天海祐希さんのチューハイのCMをずっとやってまして。黒須さんは僕がやる前からやってましたもんね。

黒須:そうですね。-196℃というやつですね。商品名は出しても大丈夫?

権八:大丈夫です。それをずっとやってまして。僕が参加してもう4、5年だから、その前から。

黒須:天海さんの前に石原さとみさんの時からね。

権八:それをずっとやってまして、今もプレゼンして、無事に企画も決まってちょっとホッとしているという。

中村:おめでとうございます。権八さんから見た黒須さんのプレゼンテーションの独特なスタイルってあるんですか?

権八:黒須さんはCMプランナー出身のCDなんですよね。なので、そこらへんはどういう意識でやられているのかは気になりますし、黒須さんの企画書というのがいつもあるわけですね。理系の方なんですけど、ロジカルにガチガチな企画書では全然なくて、どちらかというと実感というか、世の中のユーザー、まわりのみんなが思ってることをわりと実感ワードでつぶやき集にしたような企画書なんです。

非常に繊細な言葉がいっぱいあって、そのワードが固まっていきながら企画書が構成されているような印象なんですけど、非常に効くというか。面白いなと思うし、独特なスタイルですよね。

黒須:思ったことをただ連ねるだけですけどね。僕は以前は博報堂にいて、辞めて、権八くんと今一緒に仕事をしていますが、さきほどのプレイステーションや「ナオミよ」や、広末涼子のポケベルは全部博報堂時代のものです。

中村:博報堂に入社されたのが1975年。私は生まれておりません。79年生まれでございます。40年以上、広告業界でやられていると。

黒須:41年目。

中村:はじめになぜ広告業界の門を叩いたのでしょうか?

権八:いい質問だなぁ。聞いたことないや。

黒須:あまりよく知らなかったんですよ。博報堂は白洋舎のたぐいと間違えていて、電通は近所にあった電気通信大学系の組織かと思ってたぐらい、よく知らなかった。コピーライターはアラーキー(カメラマンの荒木経惟。電通出身)さんも同じようなこと言ってたけど、コピーを取る人だ思ってた。本当にそういう認識でしかなかったし、理系だったから受けるつもりもなかったんだけど、親父が、おまえは広告が向いているんじゃないかと。

絵を描くし、音楽も好きだし、文章も書くし、向いている、受けてみろ、と勝手に。そんなの嫌だよと言いながら、勉強にもなるからと言われて、博報堂と電通に願書を出したのかな、確か。で、まず博報堂の内々の面接に行ったところが、こんな感じでしゃべりで緊張して、頭かいたり足組んだりしちゃって、すぐ落とされて。

中村:え、そうなんですか!?

黒須:コネ関係の予備面接だったんですね。すぐに親父のところに電話があって、「息子さん落ちちゃうけど」という話になって。たまたま僕の叔父が出版社の社長だったり、親父の親友が資生堂の宣伝部長だったりしたのですが、親父が慌てて連絡をしたところ、そのお二人が一緒に、当時の博報堂社長のところに直接会いに行ってくださって。

権八:えっ!?

黒須:落ちたという話を聞いた4時間後ぐらいに受かったんですよ。

一同:

中村:まぁまぁ昔の話ですね(笑)。

黒須:本当に申し訳ないという。

中村:1975年にはそういうこともあったと。

黒須:資生堂の大村匡一郎さんという方が一昨年亡くなって、その追悼本の中にその話を書かせていただいたので、一応オープンになっている情報です。

権八:面白いな、それ。

中村:初めから「俺、この仕事向いてるなぁ」みたいなヒットがあったんですか?

次ページ 「初めてつくったCMは新宿ステーションビル」へ続く

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