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“Chess is as elaborate a waste of human intelligence as you can find outside an advertising agency”
— Raymond Chandler“チェスと広告業は、いずれも同じくらい手の込んだ、人間の知性の無駄遣いだ”
—レイモンド・チャンドラー
米国の小説家 レイモンド・チャンドラーが生きていたら、アドテクノロジーについても同じことを言ったでしょうか?アドテクノロジーには膨大な人類の知性が注ぎ込まれていますが、それがあまりに「手が込んでいる」ため、もっと平たく言うと「すごく頭の良い人たち」によって研究され開発されているため、このチャンドラーの引用のように、その存否が真正面から疑問視されることはあまりありません。
アドテクノロジーの結集ともいえる運用型広告、プログラマティックについて、業界の構造的な問題が議論されています。しかしそれ以前に、アドテクノロジー・運用型広告は、そもそも本当に必要なものなのでしょうか。
業界の構造的な問題の議論というのは、その業界の必要性のうえに成り立つものです。例えば、馬車製造業界に構造的な問題があったとしても、今はそれより馬車そのものの存否が議論のポイントでしょう。アドテクノロジー・運用型広告はどうでしょうか。その存否に疑問の余地はないのでしょうか。
筆者が考える運用型広告の大きな特徴は、1. 行動ベース&コンテンツベースの細かいターゲティング機能、2. 最小購買単位の小ささが可能にする緻密な最適化機能、3. メディア・オーディエンスの豊富さが可能にする(リサーチとも比肩しうる)多角的な効果のトラッキング機能、の3つです。
これだけ見ると、アドテクノロジーに依存しない従来型のデジタル広告、ましてやトラディショナルなマス広告に劣るところはどこにもないように思われます。実際にその通りです。
運用型広告はリーチが不十分と言われた時代もありますが、今や大手メディアでもアドネットワークに広告在庫を解放していないところは少数派でしょう。メディアとしての信頼性を疑問視する人もいるかもしれませんが、運用型広告では特定のメディアを指定することもできます。
筆者もかつてはアドテクノロジー・運用型広告の信者で、伝統的なマスメディアや従来型のデジタルメディアでさえ過去のものと疑わず、運用型広告への予算傾注を進めていました。しかし、数十パターンもの細かいターゲットセグメントを作成し、あらゆるターゲティング技術を駆使して緻密に設計したキャンペーンが、思ったようにワークしない、ということを何回も経験しました。
思ったようにワークしなかったというのは、過去に実施した従来型デジタルメディアのキャンペーンや、よりザックリとした設計の運用型のキャンペーンと比べ、それほど効果が良くなかった。場合によっては悪くすらあった、ということです。
そんなはずはないと、さらに運用を緻密にして予算を増額しても、結果は変わりません。大きな傾向でいうと運用型のほうが従来型より効果が良い、と言える場合はあっても、緻密な運用のために投下した労力を正当化するほどの、明確な差は生まれなかったのです。これは一体どういうことでしょうか。