ジャングルの中で暮らす「アドタイ族」という架空の部族を想像してみてください。南アメリカの熱帯雨林で、現代文明とは一線を画す独自の歴史と文化を築いてきた人たちです。情報オーバーロードと言われる現代社会に生きる我々にとっての広告は、彼らにしてみれば密林に生い茂る木々の葉っぱのようなものでしょう。
例えそのうちの1枚か2枚が彼らの美意識に100%最適化され、カスタマイズされた美しい色や造形になっていたとしても、密林全体が葉っぱで「オーバーロード」の状態であれば、そもそも誰も葉っぱになど注意を払いません。ゆえに、その最適化された葉っぱが彼らに気付かれることも終ぞないでしょう。
先日登壇させていただいた国内最大級の広告系カンファレンスで、過去3日間に見たデジタル広告を3つ以上覚えている人が何人いるか、というオーディエンスポールをしたところ、結果はなんと約300人中、たったの1人でした。
アンケートの対象がマーケターですらこの数字です。「アドタイ族」が葉っぱに注意を向けないように、現代の消費者は広告に注意を向けません。そうであれば、その中の一つか二つが彼らに最適化され、カスタマイズされていても、そこにあまり大きな意味はありません。
つまり運用型広告がいけないというわけではなく、運用型でも従来型でも、デジタルでもトラディショナルでも、現代においては広告そのものの役割、その可動域が極めて限定的になって来ているのです。マスメディアも従来型デジタルも、そしてプログラマティック「も」ダメなのです。
そんな状況において、いわば密林における葉っぱの一枚を磨き上げるために技術の粋を集めるというのは、「人間の知性の無駄遣いだ」とまで言い切るのは抵抗がありますが、少なくとも「イノベーションのジレンマ(テレビのリモコンの「蓋」のように、必要なレベルを遥かに超えて技術が進化すること)」状態であると言えそうです。
しかしだとすれば、我々はいかにして気高き「アドタイ族」とコミュニケーションをとればよいのでしょうか。米国コカ・コーラ社など、ターゲットユーザー世代で構成されたチームを組織して、SNS上でのコミュニケーションを一任する企業が成功を収めています。
ターゲットの言語を解し、彼らに受け入れられる「代理人」に我々のメッセージを託して密林に送り込み、コミュニティーに入り込んでもらうということは、一つの解ではないでしょうか。文化人類学でいうエスノグラフィーにとてもよく似ています。
本稿で論じてきたように、筆者は広告やアドテクノロジーが、ともすれば「人間の知性の無駄遣い」になりかねないことを認めます。しかし、同時にこうも思います。科学の目的は、人間や社会や自然の本質を理解し、それをもって人類の発展を期することです。人間の理解、社会の本質的な理解を志向する限りにおいて、広告もアドテクノロジーも科学です。
「技術で実現できること」があふれた時代に失われがちな視点ですが、今一度人間そのもの、社会そのものを観察し洞察する姿勢を、我々マーケターは見つめなおす必要があります。チャンドラーに広告すべてを否定させるわけにはいきません。