デザインの歴史を戦略史とリンクさせて考えてみると?
寄藤:面白いですね。先ほどの井戸の話でいうと、井戸を持っている人と持たない人で極端な差があったのが、他の水売りや、いろんな情報を持っている人が現れて、だんだんその段差がなくなってフラットになってしまう。フラットになると、最終的にエンゲージメントやクチコミが戦略になってくるということでしょうか。
磯部:別の言い方をすれば、企業がお客さんより上にいた時代(企業が提示する魅力的な未来にお客さんが憧れた時代)から、お客さんが上に来る時代に変化して、クチコミやエンゲージメントが届くようになってきたとも言えますね。
寄藤:大転換ですよね。そのきっかけは何かあったんですか?
磯部:ありきたりの言い方になりますが、技術のイノベーションが起きにくくなって、商品がコモディティ化してきたことです。アメリカでは1950年代に販売の時代=エラ・オブ・セールスという時代がありました。それまでは作れば売れる時代だったけど、その時代になると工夫しないと売れなくなってきた。商品が似通ってくると、買ってもらうための販売手法や、コミュニケーションにだんだん重きが置かれるようになってきたわけです。それ以降現在に至るまでトレンドとしては、一貫してお客さんが強くなり続けています。
寄藤:デザインのイノベーションっていうと、70年後半から80年代が一番盛んでしたね。多分バブルと関係が深いんでしょうけど、芸術の領域と経済の領域が結びついて、いろいろな新しい才能が生まれて、圧倒的な熱量がありました。その後急速にコモディティ化して…というより、パターン化していったんですよね。
表現のコモディティ化って洗練されたパターン化として現れるんです。すごく個人的な表現で人気を得ていたものを、いろんな人が自分なりに分析して洗練させていくんですよね。例えば岡本太郎さんの太陽の塔だったら、「特に印象を強くしているのは、赤い波線とあの目だ」というようなことがわかってきて、いろんな人がそのエッセンスだけ抽出して別のものに応用していくことで洗練されていくわけです。そういうエッセンスと組み合わせのテンプレがあれば、誰もがちゃちゃっと「ちょっといいもの」を作れちゃうんですね。でも、そこに最初のパワーはないんですよ、既に洗練され終わっているので。
磯部:そこ、逆にお聞きしたいです。「この領域や方法はやり尽くした」という話って、広告クリエイティブだとよくあるじゃないですか。テレビCMも大体パターン化できちゃって「ああ、このパターンか」と見るとわかるようになってくる。そこを突破する考え方はあるんですか?
寄藤:僕はブックデザインを年間で200冊近くやっているんですけれども…
磯部:200冊も!すごい。
寄藤:いえいえ。でも、200冊となると、「一冊入魂」では消化できない数字なんです。
磯部:いや、でも『手書きの戦略論』はかなり入魂していただいてますよ! 会場の皆さんは気づいたかわかりませんが、この本、あえて帯を外さないと見えない隠れた所に銀の箔押しがあるんです。普通箔って高いから、目立つところにするものなのに、帯の奥に箔押しって、どれだけこだわってるんだと(笑)。
寄藤:もちろんそういう一冊入魂はあるんですけれども(笑)。上手く言えないんですが、ブックデザインにも一種のテンプレがあるんですよ。 “売れる本のテンプレ”っていうのも存在するんです。例えば、啓発書やビジネス書だったら、ビジュアルにbeforeとafterの絵を入れるんです。悪いbeforeと良いafterの絵があって、読んだ人にはこんなに利益がある、というのをタイトルで大きくドーンと打ち出す。そうすると売れる。そういうテンプレを自分なりの方法で見つけていくこともひとつのデザインだと思うんですけど、最終的にはパターン化に行き着くんですね。どうやってそこから抜け出すかっていうのは、僕自身すごく大きなテーマなんですよ。
磯部さんの本をどういう風にすると一番手に取りやすいかっていうのを考えるときに、そういう“売れるテンプレ”で装丁することもできます。今回は、そういう点でかなり挑戦的だったと思います。手触りのある紙で、箔が少し光るような表紙のほうが「丁寧に話をしてる」感じがするとか、手書きの絵が描いてあると「一生懸命伝えようとしてくれている」感じがするとか、そういう暮らしの本とかエッセイに近いような装丁にしました。マーケティング戦略の本でこういう装丁っていうのは、テンプレには無いんですけど、この本は、そうやって読まれたいような感じがしたんですね。
磯部:店頭で目立つよりも、長く大切にされることを意識していただいている。
寄藤:「愛蔵版」みたいな気分ですね。beforeとafterを大きく見せるのは、ダイレクト論っぽいデザインですよね。ベネフィット訴求とレスポンスだけを重視してくというか。そういう意味では、この本はブランド論っぽいデザインになっているといえます。
磯部:ダイレクト論って確かにそうです。例えばネットの運用型のディスプレイ広告の場合、クリエイティブは、コピーがあって、人物がいて、背景があって、ボタンがあるっていうパターンの順列組み合わせで作られていく。最近では、色と大きさの組み合わせが5000万パターンくらいから、その中で一番効果があった組み合わせを使うなんて話も聞きました。でもそれはいい悪いの問題ではなく結局パターン化なんですよ。そこから新しいものは生まれない。渦巻きを内側に巻いているようなもので、渦巻きの外には出ていかない。いま運用型広告の世界では、順列組み合わせの最適化の方向に向かっていくこと、つまり内側に向かって洗練化していくことがクリエイティブと呼ばれている。
寄藤:すごくわかります。組み合わせを最適化していくようなことってそれなりに頭も使うし達成感もあって、それで成果が出ちゃうと、それがクリエイティブだと勘違いしちゃうんですよね。僕自身、そういう時期があって、ある時「これ、単純に渦巻きを内側に巻いてるだけじゃん」って気づいた感じです。洗練とクリエイティブというのは、重なりつつ反発しているっていう独特の関係にある感じがしますね。
以前、画家でデザイナーの安野光雅さんのお話を聞く機会があったんです。安野さんは、80年代の突飛なデザインが台頭していく時代に、自分の表現にもそういった突飛さを求められて困ったそうなんです。何か新しいことをしなきゃいけないのだろうかって悩んだそうなんですね。そういう中で、ある日電車に乗っていたら、「ここにいる人間、みんな同じ顔だけど、みんな違う顔じゃないか」って気づいたそうなんです。
どういうことかというと、人間の顔ってパーツの組み合わせは決まっているわけですよね、目があって鼻があって口がある。でも、そのパーツのちょっとした違いだけで、こんなにもたくさんの顔があるじゃないかと。座席に並んで座っている人たちの顔を眺めながら、気持ちが楽になったそうです。僕、そのお話を伺ってものすごく刺さったんです。
磯部:なるほど。
寄藤:うまく言えませんが、パターン化しているっていう考え方そのものが、パターン化を生み出しているんじゃないかっていうことなんですよね。実際にはもっと微細な動きがあるのに、それを荒っぽいマトリックスにはめることでパターン化しているという認識を持っちゃうわけです。それでもっと別のパターンを産み出さなきゃいけないって考えて、新しいパターンを作り出すんですけど、全体としてはパターン化が進むだけっていう、そういう落とし穴にはまってやしないかと。
磯部:つまり、解像度が荒いってことですね。
寄藤:そうですね。パターンで考えるんじゃなくて、もっと高い解像度とか、もうすこし複雑な視点で物を見るというのは、表現のコモディティ化を越えていく1つの方法なんじゃないかと思っています。