世の中を変えたものほど、今の世では当たり前になる
谷山:今の世の中の人は、「おいしい生活。」ということの提案性がいま一つ分からないと思う。その理由は、それ以前のライフスタイルが今となってはイメージできないからだと思います。
「おいしい生活。」が生まれるまで人々は、「豊かな生活と貧しい生活」という軸や、「色んな大きなものを持っている生活と質素な生活」というような概念で生活を捉えていた。つまり、生活に「おいしい」なんて形容詞が付くことはなかったわけですよ。
きっと糸井さんが「おいしい生活。」に込めたことは(あるいは世の中の人が感じたことは)、アンバランスでも自分の好きな所にはお金をかけて、そうじゃない所にはお金をかけない、世間体よりも自分なりの「おいしい」生活を作っていこうじゃないかということだと思うんです。でも、これは今から考えると当たり前だと思うでしょ?
今野:そうですね。
谷山:でも当時は、これくらいの年収だったら、これくらいの家で、これくらいの車に乗ってという、モデルが普通だったんですよ。でも、それは糸井さんが全く新しいことを言ったんじゃなくて、世の中は段々それだけじゃなくなってきているぞということを考えた上、あるパターン化された生活じゃなくて、「私はここにはお金をかける/ここはかけない」という選択を含めて「おいしい生活。」てものがあるんじゃないか、そういう提案に人はすごく共鳴した。僕はそう思っています。
人を大きく変えたものであればあるほど、後世の人間にとっては当たり前で、その凄みを感じられなくなっていくという話だと思います。
もう1つ、今の世の中で「おいしい生活。」の意味が分かりにくくなっている理由は、ある時からお笑い芸人の人が「おいしいとこ持ってくな~」という用法で(おいしいとこどりというニュアンスを込めて)使い始めたからで、より訳わかんなくなってると思う。「おいしい生活。」が発表された時、そういう意味はなかったんです。
コピーはその時言葉が持っている意味合いとか、その当時の社会状況とかをひっくるめて何か解決しているということなんですね。
「おいしい生活。」が出てから、10何年も、車だろうが、マンションだろうが、コピーを考える際に「これは要するに…おいしい生活ってことだよな」という風に行きあたってしまいましたね。だから何年も先のことまで、言い当ててしまっているということなんですよ。
今野:人々の潜在意識みたいものに言葉を与えた?
谷山:そうですね。みんなが言語化できてないモヤモヤしていたものに、言葉を与えたっていうことなんです。僕なりの解釈なので糸井さんに聞くとまた違うかもしれませんが、大間違いではないと思います。