<編集者は原稿をどう磨く? 「編集」編はこちら>
「原稿」は編集者の手を介することで「記事」になる
原稿は「論」ではなく「ファクト」で語れ
原稿を書く上で何よりも大事なのは、「どう書くか」ということです。一人の人物を対象に同じ話を聞いても、「どう書くか」によって原稿は十人十色になります。イチロー選手がメジャー通算3000本安打を達成したときに、イチロー選手について書くとしましょう。ただ背景のデータをなぞっただけのWikipedia(ウィキペディア)の丸写しでは意味がない。書き手には、それを「どう書くか」こそが問われているんです。自分にしか書けない、自分だからこそ書けること、書き手の個性やオリジナリティを出すというのは、「何を書くか」ではなく「どう書くか」にかかっています。
「どう書くか」においては、取材したなかでどのファクトをひっぱってくるのか、つまり「何をどう書くか」ということも重要です。インタビュー受け慣れしている取材対象の場合は、話すことが定番化されていることも少なくない。それをそのまま書くのでは、他と似たような原稿になってしまいます。もちろん取材で何を聞き出すのかも重要ですが、取材で得た情報と周辺取材を含め、どのファクトを使うのか、そしてどのように書くかで、書き手としての力量が測られます。
ぼくがよくいうのは、「論ではなく、ファクトで語れ」ということです。例えば、『オシムの言葉』で書いたイビツァ・オシムは、ジェフユナイテッド市原(当時)の監督に就任する以前こそが、重要だと思っていました。オシムがどのような思いで日本での監督を引き受けたのか、そしてその座に至る葛藤は、本人へのインタビューで聞くことができる。ぼくも実際に本人に直接聞きましたが、それに加えてオシムの故郷を訪ねました。現地の人々がどのようにオシムという存在を見ているかを周辺取材することで、オシムの立ち位置をより俯瞰して伝えたかったんです。
これは「何を書くか」ということであると同時に、オシムという人間を「どう書くか」ということでもあります。そしてユーゴスラビア代表監督時代にボスニアで何があったのかを書くのは「論」ではなく、紛れもない「ファクト」です。そのファクトをどう扱うかが、書き手にとってのオリジナリティになる。持論を展開することだけが、オリジナリティとは限らないわけです。
原稿の構成を考えるにあたって、ぼくの場合は「起承転結」や「序破急」などはあまり考えていません。ただし構成の論理性が破綻してしまえば、全体がおかしくなってしまうので、これでもかというくらいにファクトを突き詰めていきます。ノンフィクションの記事などの場合、ツッコミどころがあれば、せっかく掘り出したファクトであっても悪い方面に作用してしまいかねない。書き手として、完膚なきまでにファクトを突き詰めていくことは、常に意識しています。