「広告ってナメられているんですか?」マンガ家・しりあがり寿×山本高史 対談

好評発売中の『広告をナメたらアカンよ。』では、キリンの宣伝部からマンガ家に転向したしりあがり寿さんとの対談を収録している。本書の元である『宣伝会議』の人気連載「広告を『読む』」はどのような経緯があって生まれたのか。本記事では、その一部を特別公開。広告が“ナメられている”理由も明かされる。

山本高史:いきなりだが、ぼくは、しりあがり寿さんが大好きだ。作品もご本人も、である。『ひげのOL薮内笹子』も『流星課長』も好きだが、いちばんは『夜明ケ』に収録されている「他所へ」である(読んでは泣き、泣いては読み)。しりあがりさんと初めて出会ったのは、20数年も前のことである。当時は、「キリンビール マーケティング部の望月さん」だった。そういう経緯から、紫綬褒章作家にお付き合いいただいて、広告とコミュニケーションの話である。

しりあがり寿
「ぼくは美術大学出身で、美大には絵が好きで入ったんですが、ハイアートと言われる純粋な芸術がわからなかったんです。なんか難しそうでね。もっとエンターテインメントのようなことをやりたいと考えていたら、広告があるなと。それで広告って楽しそうだなと思ったんです」

ぼくも、専攻は美術系(文学部美学科)だった。ただしりあがりさんと違って広告に嫌悪感を持っていた。当時の『BRUTUS』に掲載されていた都築響一さんの連載「サルまねクリエイター天国」などを読んでいたものだから、「広告はパクリでイカン!」と若い正義感は憤慨していた。ところが、何がどうしたのかぼくは電通に入り、その年にしりあがりさんは『エレキな春』でデビューした。キリンビールの社員でもあった。

しりあがり寿
「そうでしたね。主に広告宣伝やパッケージデザインを担当していましたが、ぼくは当時、広告を楽しいと思うと同時に、憧れていたんです。ちょうど、糸井重里さんのコピー『おいしい生活。』( 西武百貨店)が出てきた頃でした。何に憧れたって、あんなにも短い言葉で、たくさんお金がもらえるのかと。ちょっとラクそうな仕事だなんて思っていましたから( 笑)」

「おいしい生活。」は1982年。しりあがりさんが、新入社員の頃だ。

しりあがり寿
「なんていうか、まざまざとコピー、そして広告の力というものを感じました。当時は、本当に広告が面白かった時代でしたよね」

「広告が面白かった時代」? つまり今はそうでもない、と?

しりあがり寿
「広告は変わったと思いますね。ぼくがキリンビールで広告の仕事をしていたのは、もう20年とか30年も前のことですが、当時と比べると、広告の役割自体が小さくなった気がします。その頃は、ポスターを貼っておけば、なんとなく眺められていましたが、今はこれだけメディアがあるし、グラフィックの力もどんどん弱くなっている。広告にとって、複雑で難しい時代になっていると感じます」

ずっと広告の中に身をおいていると、その変化はぼく自身の変化も促す。つまり客観的に眺めるのは難しい。道一本隔てて広告を見る、元広告の先輩の視線は痛い。

しりあがり寿
「あの頃は、広告でこんなに世の中が動くんだ! というのを実感していましたからね。でもね、ぼくはやっぱり、今でも広告は好きなんですね。広告って、素直だし嘘をつかない。それでいて、伝えるのにいつも一生懸命じゃないですか」

広告は、一義的には自分のために仕事をしているのではない。商品やサービスのためだ。それらがお客さまに買ってもらえることを一途に願っている。もちろんこんな時代だ、嘘などつけない。法律も守る。結構面白いものを書いても見せても、消費者からはお代は頂戴しない。

しりあがり寿
「ぼくも広告の仕事をしていたからこそ、広告はいろんな事情の塊というのが、なんとなくわかってしまうんです。今も街で広告を見かけると、どんな事情でこうなっているのかって考えてしまいますから」

広告は事情の塊である。ブラックボックスと言ってもいい。制作者は告知されず、制作意図も公表されない。受け手である生活者に提示されるのは「明るく楽しく美しく」のみだが、薄皮一枚はがすと企業や芸能界やメディアや業界の事情がこれでもかと塊になって姿を現す。広告づくりはそれらすべてを飲み込んで、ケツから出すみたいなところがある。少々以上のマゾっけがなければ、つとまらない。

しりあがり寿
「マンガでもそうですが、みんながアートに求めているのは、そうした諸事情から離れたものなんですよね。マンガの諸事情で最も大きいのは、やっぱり売れるか、売れないかです。売れないものはこの世に存在できなくなってしまう。広告の場合は、事情の塊でありながらも、作品として自立するようなコピーやクリエイティブってあるじゃないですか。そういうものに出合うと、やっぱり広告はすごいというか、「なめたらアカンなぁ」と思うんですよね。それにしても、『広告をナメたらアカンよ。』って、すごいタイトルですよね」

もともと、雑誌での連載は『広告を「読む」。』というタイトルだった。書籍化が決まった当初も『広告は告白する。』といった、大人びたタイトルだった。ところが、宣伝会議はそれでは売れないと思っていたようだ。「『広告をナメたらアカンよ。』ってどうかな?」「それがいい!」となった。

しりあがり寿
「ナメられているんですか、広告って」 

ホント「ナメたらアカン」のではあるが、ナメられるだけの理由(誤解ベースだが)があることはわかる。広告は、そもそも必要とされていないコミュニケーションだ。例えると、「モテない男子」か。A子ちゃんが新聞を開いたら、広告がある。「私、記事くんの意見が聞きたいんだけど、広告くん、なんでそこにいるの?」。B子ちゃんがテレビをつけたら、広告が流れている。「あれ? 広告くんも来たの? 呼んでないんだけど。私、バラエティくんと遊びたいんだけど?」。早い話が、「広告くん、どっか行ってよ」ということだ。彼女とバラエティくんとの楽しい時間は、広告くんがお金を払っているのだが。

しりあがり寿
「お店に行っても、商品のそばには必ず広告くんがいますよね」

先に書いたように、広告くんの思いはひとえに商品が売れることだ。だから消費者に「買ってください」と頭を下げる。「かしこい消費者」とおだててみたりする。「今がチャンスですよ」と猫なで声も出す。お金が絡めば痛くもない腹を探られ、下からものをお願いする立場では、当然仰ぎ見られることはない。しかしそこには大きな誤解、もしくは無理解がある。

しりあがり寿
「どんな誤解ですか?」

30年以上広告の仕事をしてきて、実はこの連載を通して初めて気が付いたことがある。それは「広告は善意だ」ということだ。広告は商品やサービスを売ろうとするが、2016年の日本に、社会や生活をダメにしようとする商品やサービスは稀だ。例えば、エコカーを考える。エコカーを買うことでその消費者は相対的に環境負荷の小さい生活を手に入れることができるが、その総体として環境負荷の小さい社会も実現する。広告ががんばって販売数を増やせば増やすほど、社会は好ましい方向に改善される。消費電力の少ない電気製品も、染み抜きも、ポテトチップスも同じ仕組みの中にある。商品やサービスは人や社会を幸せにしようとする。その販売をプロモートする広告が、悪意なわけがない。

しりあがり寿
「モノを売ろうとしている以上、売る人自身が何を考えているのかというメッセージがついてくるほうが、わかりやすいですよね。そうでないと、ぼくなんかはかえって不穏に感じてしまいます。それが、広告だというわけですね」

広告は無口である。善意をことさらアピールすることもなく、クレームを寄せられても反論も言い訳もしない。そんな広告が何をしようとしてきたのか、何をしようとしているのかを自分自身で確かめるために、雑誌の連載を始めた。

※本記事は、『広告をナメたらアカンよ。』に収録されている対談の一部です。続きは、書籍にてご覧ください。


『広告をナメたらアカンよ。』好評発売中!

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『宣伝会議』でおよそ2年間にわたって掲載してきた人気連載「広告を『読む』。」が大幅な加筆修正をし、待望の書籍化。

「男は黙ってサッポロビール」「そうだ 京都、行こう。」「おじいちゃんにも、セックスを。」「恋は、遠い日の花火ではない。」「ピッカピカの一年生」「おいしいものは、脂肪と糖でできている。」「ウイスキーが、お好きでしょ」「愛だろ、愛っ。」「想像力と数百円」「あなたが気づけばマナーは変わる。」「みんながみんな英雄。」・・・など

名作コピーを紐解き、 広告を読むことで見えてくる「時代/社会/人間」。 そこにはいつもコミュニケーションの本質があらわれる。 コピーライターであり「言葉の専門家」でもある著者が語る、 渾身の広告・コミュニケーション論!

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