アドフェストの受賞が最初の転機に
僕は大学では、哲学科で学びました。その頃アメリカへ留学する機会があり、そこで写真を勉強し、フィルムの魅力に取りつかれたんです。帰国後はフィルムで映像を撮りたいと思っていたのですが、当時はデジタルへのシフトが進み、フィルムで撮っているのはCMと一部の映画ぐらいで。
それでもフィルムを回したくて、卒業後はCMプロダクションのスプーンに入りました。配属された部署は制作部。制作部はスケジュールやお金、スタッフィングなどの進行を管理する部署だったので、「自分がやりたいのは監督だ」と気づき、演出部のあるハットに移籍することにしました。とはいえ、移籍してもすぐ監督になれるわけではありません。1本のCMを撮れるようになるまでには、どうやら5 ~ 6年かかると知りました。「5年は長すぎる」と思っていた矢先、あるチャンスが訪れました。
アジアパシフィック地域の広告祭「アドフェスト」に、新人監督の登竜門となるアワードが設立されたんです。当時海外では、ミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズらがCMやMVの世界で活躍していました。日本では想像もできないような、思想的あるいは政治的、エロ、暴力などさまざまな映像が海外にはある。
「広告映像って本当はこんなに可能性があるんだ」と驚きました。自分も頑張ってつくれば、その先に何かあるんじゃないか。そう感じて、アドフェストの作品をつくりました。制作したのは「RIGHT PLACE」という短篇映画です。この作品が賞をいただいたことをきっかけに、僕は監督として海外でも認知してもらえるようになりました。そこから次の仕事が来る、という流れもできた。この受賞は僕の初期のキャリアを形成してくれた大きな出来事でした。
「自分たちのためにつくる」への転換
しばらくすると「もっと自由なことがやりたい」と思うようになり、2008年に独立。その後はライゾマティクスと一緒にナイキのCM「Nike Music Shoe」や、アイルトン・セナの走行データから鈴鹿サーキットでの走りを再現した「Sound of Honda /Ayrton Senna 1989」などの制作に携わり、テクノロジーを駆使した作品で数々の賞をいただきました。仕事は順調でした。
でも、この頃から僕はだんだん違和感を覚えるようになったんです。映像制作を志した初期の気持ちや、今後何をつくっていきたいのかがわからなくなってしまった。「自分はなぜ映像をつくりたかったのか?」と改めて考えるようになりました。このとき僕は既に30代後半。そろそろ真面目に映像をつくる意味を自分に問いかけなければならないと思いました。
映像はつくる前のコンセプトが自分の中で明確になっていないと浅い作品になり、見た人の心に留まらずに一瞬で通過してしまいます。「誰のために、何のためにつくるのか?」、自問自答を続けた結果、僕は自分や一緒に戦ってきた仲間、信頼しているアーティストを含めた「自分たちのためにつくる」というテーマを設定しました。
その頃、海外の著名な監督から「日本に面白い音楽アーティストはいないか? MVが撮りたいんだ」と連絡がありました。僕は「自らで音を探して、相手のためにMVを撮っているのか」と驚きました。でもその行為は相手のためだけでなく、自分のためでもあったんですね。その自由な発想に触れて、当時の僕はまだ自分が受発注のスキームに捉われていたと気づきました。
その後は自主制作的な作品が増え、Young Juvenile YouthやThe fin.など、心から一緒につくりたいと思うアーティストたちのMVをつくりました。