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テクノロジーの民主化が「オルタナティブファクト」を生んだ
2017年は様々な意味で「変革の年」になるという気がするのは、自分だけではないでしょう。英国が「EU離脱」を宣言し、米国でトランプ政権が発足したことは、政治の世界だけの話ではありません。
これまでデジタルテクノロジーが推進してきた民主化は、ポジティブな文脈において、人々がインターネットでつながり、新しい接点を拡大してきたという「社会のコミュニケーションの活性化」を意味してきました。
しかしスマートフォンのようなパーソナルデバイスが普及してくると、誰でも情報にアクセスできるようになった挙句、人々は見たいものしか見なくなるという情報の偏向性も高くなります。だからこそ「広告ブロック」のようなアプリが好まれるだけでなく、そういう人々のコマーシャルメッセージに対するレーダーを回避するために、ステルスマーケティングとして巧妙な形でデジタル情報が氾濫するようにもなりました。
そしてトランプ大統領の登場によって、特にデジタルメディアは「オルタナティブファクト」をめぐる政治闘争の場所に変貌したと言っていいでしょう。現代は情報操作されているかどうかも含めて、自身にとって「何が正しいか」という判断が常に求められる状況になりつつあるのです。
例えば普段、ニュースの真偽を確かめる際の「正しさ」とは、それが事実か事実ではないか、ということです。ただ芥川龍之介の「藪の中」よろしく、語り部によって視点や内容が異なるのであれば、それは「真実としての事実」ではなく、途端にある側面(一面)から見た事実、つまり「オルタナティブファクト」になってしまいます。
特に現代のように情報がハイスピードで大量に流れていく時代では、その情報を吟味する手間やリテラシーを考えれば、スマートフォンのスクリーンをタッチする感覚で感情的な反射のほうが優先されてしまいます。そのような視聴者にとって情報の正しさと偏向性は相乗効果を起こして、ますます自分が見たいもの、聞きたいものだけを信じようとするでしょう。
これは食べ物の好みや、服の趣味といった話ならまだしも、多くの人にとって重要であるべき医療や教育、金融、政治などの社会的事実といった領域にまで広がると、途端に世界が違って見えてきます。