『湯を沸かすほどの熱い愛』中野監督に聞く 「映画学校の3年間が人生の分岐点」(ゲスト:中野量太さん)【前編】

大学卒業後の映画学校の3年間が人生の分岐点

中野:そうです。表現の最高峰って何だろうと考えたときに映画だなと思って、入っちゃったんですよ。だから、周囲には反対されました。なんでお前が映画なんだと。

中村:それまで映画なんて、ほぼなかったじゃないかと(笑)。

中野:「え、僕好きだったよ」みたいな言い訳をして入ったんですけど(笑)。僕の運命が変わったのは、映画学校に入って、こんなに面白いものがあるんだと知ったことですね。つくることが面白くて、興奮して。その3年間で僕の人生が変わったと思います。

中村:映画学校では、監督を目指す人や脚本家を目指す人がユニットを組んでつくるという感じなんですか?

中野:そうです。1年生のときは全部経験をさせてもらって、2年生からコース分けになって、僕は演出監督コースに進みました。3年生のときに卒業制作があって、それは学年に200人ぐらいいる中で、10人ぐらいしか撮れないんですよ。

澤本:卒業制作は全員撮れるわけじゃないんですね。

中野:選ばれた何人かしか撮れません。そこにいっぱいスタッフが付くんです。僕はうまいこと卒業制作を撮れて、それがたまらなく楽しくて、興奮しました。

中村:それは脚本がよかった?

中野:脚本のコンペみたいので、みんなで投票して選びました。

中村:そこがまた分岐点でもあったんですね。

中野:そう思います。卒業制作を撮ってなかったら、たぶん辞めてました。でも、続けても卒業した後がなかなか苦しくて、一回映画の助監督をやったんですけど、僕は全然ダメだったんです。

澤本:それは助監督としてダメだったということですか?

中野:最低な助監督で。気が利かないんです、全く(笑)。

中村:一般の方はわからないかもしれないですけど、助監督って大事な役割なんですよね。たとえば、カメラの前に立って、監督の先回りをして、ありとあらゆることをやったり。

中野:雑用のもう少しやらなきゃみたいな感じでしたけど、本当にダメで。普通の公道でバミったら、撮影後に剥がさなきゃいけないじゃないですか。「量太、剥がしておけよ」と言われるんですけど、忘れるんですよね。

一同:(笑)

中野:バミリが外せなくて怒られて。「お前、外せって言ったのに外してなかったじゃねーか」と。すみませんと言って、また次やって(笑)。お芝居を見たくて、見てると忘れちゃうんですよ。でも、助監督ってお芝居を見る必要ないぐらい雑用をする仕事。何回もそれがあって、怒られたから絶対に次はバミリ外すと思うんですけど、「またお前外してなかったな」と怒られて。僕はダメなんじゃないかと思って。

中村:小学生みたいな(笑)。

中野:だから2年ぐらいで映画業界をドロップアウトしてるんですよ。

澤本:1回、助監督がダメだと思って、離れて。

中野:小さなTV番組のADやDをやってたんです。

澤本:僕らが普通に見てるような?

中野:それもあるし、CSの小さな料理番組や深夜の東京都の産業を紹介する番組などですね。若者の討論番組は8年ぐらいやってました。

権八:「しゃべり場」ですか?

中野:それのテレ東版みたいのがあったんです。でも、やっぱり映画が忘れられなくて、初めて自主映画を撮るという選択肢があることを知って、商業ダメだったから、自主映画を撮って勝負しようと。学校を2000年に卒業して、初めて自主映画を撮ったのが2005年です。それで初めて撮った自主映画を評価してもらったときに出会ったのが澤本さんです。 

<後編へ続く>

構成・文:廣田喜昭

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