記事が起点となり世論が動く
――駒崎さんの記事には、読まれた先に「社会を良くしたい」といった“意志”を感じます。読んだ人が記事に書かれた問題をどのように認識し理解するべきか、またどのようなアクションをするべきかといった導線がきちんと描かれている。そうしたことは、やはり意識して書かれているんですか。
「この記事は何のために書くのか」を考えてから書くようにしていますし、そういう意味では一つひとつの記事に意志を込めています。僕は「表出」と「表現」という2つの発信のスタイルがあると思っているんです。「表出」は、それを書くことで自分がスッキリする類いのもの。「表現」というのは、それによって誰かが動機づけられるものです。
僕がしなければならないと思っているのは「表現」なんです。「表現」であれば、誰に届けたくて、届いた人に何をしてもらいたいのかを描いたうえで書かないと、なかなか伝わらないですからね。
――そうした「表現」も、これまではメディアを通じてしか伝えられませんでした。それがいまは、駒崎さんのような個々人が情報発信の担い手になっていますね。
ここ数年感じているのは、個人がメディアになる“マンメディア”の時代が来ているなということです。僕の場合は、自分のブログやYahoo!ニュース 個人で記事を書き、それがブロゴスやアゴラ、ハフィントンポストなどに転載されるのですが、それらを合わせると2017年1月は数百万PVにもなりました。
これまでに本もいくつか出していますが、最も売れたものでも3~4万部とかで、また新聞などに記事が載っても、ほとんどフィードバックはありません。一方で、ネットで記事を書くと何百万人にも読んでもらえます。さらに記事がバズれば、良いものも悪いものもありますが、たくさんの反応がある。そう考えると、やはりメディアの力関係みたいなものが、大きく変わっていると感じます。
たとえば、年明けに「2017年にはぶっ壊したい、こどもの貧困を生みだす日本の5つの仕組みとは」という記事がバズったのですが、そこで書いたのは、子どもの貧困問題に関わる人なら誰もが知っているし、当たり前のようなことでした。僕の言っていることに新しさなんて何もなかった。でも多くの人にとっては未知の問題、つまり問題になっていない状況だったんですよね。だから「知らなかった」という声がたくさんありました。
その記事を読んでくれた人のなかには国会議員の方もいて、民進党の細野豪志さんは記事にあったことについて国会で総理大臣に質問してくれたんです。一つの記事が起点になって、数週間後には国会で議論される。そうした新たな政策形成の仕組みが生まれつつあるのではないかとも思っています。
――記事が社会に与える影響力の可能性を感じさせるお話ですね。
僕は記事を書いて発信するメディアを、これはNPO業界の言葉ですけど、「イシューレイジング」のツールとして捉えています。よく寄付を集めることを「ファンドレイジング」と言いますが、「イシューレイジング」というのは、その「イシュー=テーマ」を世の中に認知してもらうということです。
たとえば待機児童の問題は、いまやイシューとして日本中に認知されていて、知らない人はほとんどいないですよね。でも、果たして数年前はどうだったか。そうしたことは、情報が伝わらない限りは社会に問題だと認識されづらいんです。だからこそ僕は、社会の課題の解決につなげたいという思いを持って、記事を書いています。
報じる側のリテラシー問題
――個人が記事を書いて発信できる一方で、既存のメディアが発信する記事はいまも大きな影響力があります。昨今の既存メディアのあり方については、どのように捉えていますか。
2016年は、米国ではフェイクニュースの問題が、日本ではWELQの問題などがあり、メディアあるいはネットにおける記事の信頼性が問われる時代になっていますよね。
僕はもともとインターネットに夢を見ていた一人で、インターネットそのものがメディアになり、あらゆる情報がオープンになって誰もが等しく情報を受発信できることで、そこに集合知が生まれる。そうして世の中にとっての最適な意思決定ができるようになるはずだと信じていました。そんな理想を打ち砕かれたのが、2016年だったんです。
ただWELQの問題は、“マンメディア”がカウンターの役割を担い、問題化させたことも事実です。それは以前だったら大手メディアの記者がやっていたことですが、個人が声を上げて是正されていったのは、これからの時代の新たなメディアのあり方なのかもしれない。
それにWELQの問題で「やっぱりインターネットメディアは全然ダメだ」とか言われましたが、それを真っ先に追及していたのもBuzzFeed Japanをはじめとする同じネットメディアでした。ネットメディアと既存メディアは二項対立軸で語られがちですが、一連の流れを見ると決してそうではないですよね。
――最近はメディアリテラシーについて話題になることも多いですが、駒崎さんはどのように考えられていますか。
正直なところ、日本人はメディアリテラシーが高いとは言えないと思っています。それは情報の受け手だけでなく、送り手もそう。僕が専門とする保育についての報道水準の低さには、いつも驚いています。ほとんどフェイクニュースと言えるものが、大手メディアで報じられてしまっている状況がある。
何の知識もない記者が専門家からちょこちょこっと話を聞き、勝手なストーリーがつくりあげられて報道されるのは、世間が間違った認識で捉えることを助長しかねません。専門家から見たら「一体何を言っているんだ?」ということが、平気で報道されてしまっているんです。
でも一方で、メディアの方々も一つのイシューに対してきちんと勉強している時間もなく、聞きかじったことをまとめるので精いっぱいなのかもしれない。だからそうした状況も、ある意味では仕方のないことかなとも思うんです。彼・彼女らは何の専門でもない。でもだからこそ、さまざまな分野について報じることができるという側面もある。
そうであるならば、むしろ我々のような現場でやっている人間がわかりやすく問題の要点を提起して、それをメディアに語ってもらうという、“バトンリレー”みたいなことをしていくのも必要なんじゃないかと思うんです。少なくともメディアを批判するよりは、よほど意味があるんじゃないかと。
具体的には、記者が何かについて記事を書こうと思えば、とりあえずググりますよね。ググって、1ページ目に出てきた情報を基礎知識にする。だからウィキペディアを信じていたりする人も少なくない。そうした現実がある以上は、僕らがウィキペディアの情報を正しく直したり、あるいはきちんと情報をまとめたサイトをつくったりするのも、良いかもしれません。メディアの姿勢を問いつつも、情報のアクセシビリティを整備していくことが必要だと考えています。
――その“バトンリレー”が機能するほど、世の中に情報が正しく伝わり、報道が健全化していくということですね。
そうですね。そのためにも、バトンをつなぐ側がまず情報を発信しないといけないし、それは担うべき責務なのかもしれないと感じています。ただNPO業界に限って言えば、「現場で真面目にやっていれば、いつかきっと世間にも問題だと認識されるようになる」といった実直すぎてしまう文化がある。でも、“いつか”じゃダメなんですよね。“いま”困っている人がいるんだから。
社会に問題として認識されるのが遅れるほど対応も遅れるので、救われない人がどんどん沼にはまっていく。多くの場合、誰かが声を大にして「こんな問題があるんだ!」と言い、それが世間に問題だと認識されてはじめて、助けの手が差し伸べられます。そのためには、自分たちにとっては当たり前のことでも、発信をしないといけないんです。
そういう意味では、業界に発信者になる記事の“書き手”がいるかどうかは、問題を解決する上で重要なことですよね。