選手が試合に負けたことには怒らない。でも、「負け方」には怒っていた(ゲスト:篠原信一さん)【後編】

オリンピックで金を獲ろうと、本気になったのは大学3年生のとき

中村:初めはそんなに突出しなかったんですか?

篠原:中学のときは地区大会1、2回戦で負けてましたね。3年生のときに地区大会3位になっただけです。地区大会と言っても、重量級は20名出るか出ないかぐらいの小さい大会で、そんな感じですから。

中村:それで金メダル・・・正直、誤審問題があったから金メダル級だと思ってるんですけど、なれるんですね。

篠原:高校に行って、嫌であれば柔道部も学校も辞めればいいと思ってました。そういうノリで高校に入ったんで、自分が柔道でオリンピックに出られて、こういう場にいること自体が不思議で、当時は全く想像できなかったです。

澤本:じゃあ、高校のときにグーンとうまくなったんですか?

篠原:高校のときも辞めるつもりでいたんですよ。ただ、柔道部の先生がめちゃくちゃ怖くて、辞めるって言えない。ちなみに学校生活で悪いことばっかりしてたので。

中村:やっぱり悪かったんじゃないですか(笑)。

篠原:悪さというのがどこまでが本当に悪い部類に入るかですよ。年齢的にもタバコ吸っちゃダメなので、タバコを吸うのは本当に悪いのか。無免許でバイク乗る、捕まるぐらいだったら悪いのか。色々な基準があるじゃないですか。そういうことを繰り返していたので、仕方がないと言えば、仕方がないんですけど。

中村:やられていたんですね(笑)。

篠原:その範囲ですね。別に人からお金取ったりするなどはなかったので。

澤本:人にご迷惑はそんなにかけてないと。

篠原:そんなにね。

一同:(笑)

権八:高校のときに柔道は嫌だったかもしれないけど、練習は真面目にやって。

篠原:練習は真面目にやってました。それはなぜかというと、先生が厳しいから、怖いから、怒られるから。ただ、本当に愛のムチを受けて、今の私がある。あれは愛のムチだったんだと。当時はそんなこと全く思いませんでしたが(笑)。

権八:でも、厳しいスパルタ先生がいなかったら、メダリスト篠原信一は誕生していない。

篠原:間違いなく誕生してませんし、先生がいなければ高校も辞めてたと思うんですね。あの指導があったから今の自分があるので。

権八:それでメダルまでいくというのは、やっぱりセンスはあったんじゃないですか?

篠原:いや、センスは本当になかったですね。これは本当の話で、たたき上げじゃないですけど、ガンガンやらされて、無理矢理やらされても、筋肉ついたり、技を覚えたりします。大学3年生のときに初めて全国という名のつく学生の大会で優勝して、そこからですね。俺にもできるんだと、世界選手権やオリンピックで金獲るぞとなって。それ以降は自分から練習しました。

澤本:なるほど。そこまでは自分からじゃなく、やらされた感じで。

篠原:そうです。高校のときは先生怖いから、大学1年生、2年生のときは先輩が怖いから。先生じゃないんですよ。大学は先輩が厳しいから。でも、3年生のときに優勝したことをきっかけに、そこからですね。

澤本:今、柔道をされてる若い方は普通に柔道が好きでやってらっしゃるんですかね?

篠原:小学校からはじめた道場の先生が厳しくて、中学、高校の先生が厳しくて、それで全日本に入ってという段階があると思うので、その人の年齢によったり、道場によったりするでしょうね。井上現監督に関しては、選手と話し合って、理解させたうえで頑張りなさいという指導をしてますね。これが井上康生監督の素晴らしいところで、柔道大好きで、色々なことを勉強して、取り入れて、それを選手に話して、理解させてやらせている。これはある意味、私のお蔭というところもあると思うんですよ。

一同:(笑)

篠原:私が監督してるときのコーチなので。

澤本:見て育ったと?

次ページ 「柔道の指導者として、篠原さんが怒るときはどんなとき?」へ続く

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