メディアや時代が変わっても変わらないこと
新商品は多くの場合、それがあったらもっと人の暮らしに役に立つだろう、誰かのニーズに答えるものになるだろう、誰かに喜んでもらえるだろう、という視点で開発されているはずです。
つまるところ、企業が開発する新商品は「より良い暮らしや、より良い社会になること」を目指しているはずです。そして広告とは、それらの利便性をいかに生活者に伝えるかという存在です。
では、どうしたらその商品を必要としている人たちに、あるいは今は必要だと気づいていない人たちに、その商品の価値を上手に伝えることができるのか。
その思考プロセスは、換言すれば「人の幸福について考えること」であり、そうした「人の幸福について考えること」を仕事にしている広告クリエイターは、なんと幸せな仕事をしているのだろう、と一倉さんはおっしゃるのです。
これは大変、誇らしい指摘です。広告の仕事が一気にグレードアップした感じがします。しかし一倉さんは、その気持ちにキチンとブレーキもかけています。伝える立場の責任についてです。人の幸福について考えた時、安易で表面的な表現はふさわしくありません。「幸福の安売り」ほど、困ったものはないというのです。
広告クリエイターはあくまで誠実に、自分の体重を乗せて、自らが信じていることに従って、広告コミュニケーションを考える必要があります。本来、そうしたものでなければ、人に何かを伝えることはできないはずです。故・杉山登志さんも残しているように、「嘘をついてもばれるものです」。
マス広告の場合、企業からのメッセージはテレビや雑誌などのマスメディアを通じて生活者や顧客に届けられます。そして肝心のメッセージの中身に関しては、広告クリエイターの出番となるわけですが、そのポイントはいかに血の通ったコミュニケーションにするかというものです。
つまりマスメディアのメカニズムと広告クリエイターの存在が補完関係のようにタッグを組んできたからこそ、今まで広告が人に愛され、受け入れられてきたのと言えるかも知れません。