細野さんがプロのミュージシャンになった意外な理由
権八:キャリアでいうと、音楽家生活は50年ぐらいですか?
細野:音楽は中学からやってるけど、給料をもらってバンドやりだしたのは21歳ぐらい。2018年に50周年があるんだけど、演歌やってる人みたいでしょ(笑)。ロックで50年というのはあるんだね。
権八:最初の給料もらったときに、お父さんにタバコのカートンをプレゼントしたそうですね。
細野:そう、その通り! よく知ってるね。
権八:はい、読みました。プレゼントしたと。
細野:当時は物価も安いし、サラリーマンの初任給が4、5万の頃じゃないかな。僕もだいたいそのぐらいもらっていたので、父親に独立宣言して。
中村:当時をなかなか想像できないんですけど、音楽をはじめたきっかけ、デビューにどのように至ったかをお聞きしてもいいですか?
細野:いいけど、特にないよ(笑)。後から考えればうまくいったなと思うけど、当時は一寸先は何が起こるかわからない。適当にやってたからね。運が重なって今に至るというか、何だろう。決して幸運だとは思ってないよ。なんでバンドに入ったかというと、給料袋をチラチラ僕の目の前で見せられて。「これあげるから入らない?」と言われて(笑)。
澤本:それはどこでですか?
細野:麻布のほうの絨毯Bar。
澤本:え、絨毯のBar?
細野:絨毯Barなんて知らないよね。靴を脱いであがるBarというか、レストランまではいかないクラブのような。みんな靴を脱いで上がるから絨毯が敷いてあるという。そこに米兵の黒人たちが踊ってたりしていて。
澤本:米兵が踊ってるなかで給料袋をチラつかされて?
細野:知り合いでグループサウンズだったバンドがいて、「もうグループサウンズはダメだ。形態を変えるからドラムスとベースを探してるからやってくれないか」と、その場で言われて。その前まで僕は大学生だったんだけど就職活動を全くしなかったのね。まわりの人がどんどん就職していくから、どうやって就職するんだろうと思って大学の窓口行ったら、閉まってて(笑)。春の風が吹いてて、「もうダメだ、もう1年やろうかな」と。そんな感じだったですよ。
澤本:つくってらっしゃる音楽がときどきによって変わるじゃないですか。もともとはエイプリル・フールやはっぴいえんどで、特にはっぴいえんどの頃は、言い方が正しいかわかりませんが、日本語のロックみたいな感じでしたよね?
細野:そう言われてましたね。