ラジオが音楽の全てを教えてくれた
澤本:日本でロックというのは強く意識してやってらっしゃったんですか?
細野:さっき言った給料袋のバンドはコピーバンドなんですよ。当時のサイケデリックやいろいろな音楽をやって鍛えられて。オリジナルをつくっていかないといけないというので、はっぴいえんどをつくって。ルーツを大事にしないとオリジナルはつくれないけど、僕たちは「邦楽知らないし、ルーツないじゃん」と。
そのとき一緒にやってた松本隆が文学的な素養があったので、彼の詞に対する思いを1つテーマにして、それが精神的に1つのルーツになったということですね。だから日本語でやることは意義があるけど、難しかった。はっぴいえんどの1枚目は音を先につくって、言葉を乗っけたと思うけど、そうするとうまく乗らないんだよね。だったら詞を先にもらったほうがいいとなってきたんです。それで2枚目は先に詞をもらって、曲をつけて。
中村:詞先のほうがフィットしたということですか?
細野:詞先だと言葉の持ってるイメージやリズムが音をつくっていくから、自分で考えてもみないようなメロディが出てきたりね。
澤本:じゃあ詞に引っ張られて、自分の中にある今まで気が付かなかったものが出てきて。
細野:そうそう、それが面白くて。その後、病みつきになったりして。
中村:それは作曲の描写力というか、実力がないとできないですよね。
細野:苦労して慣れれば大丈夫。
権八:絨毯Barなど、若い頃はいろいろなところで遊ばれてたんですか?
細野:遊びが目的じゃないんですよ。音楽が好きだったので、いい音楽がかかる店はよく行ってましたよ。
澤本:たとえば、どういうところに行かれてたんですか?
細野:六本木の「ジョージ」というBarで、米兵が来るところなんですよ。ジュークボックスが置いてあって、最新のシングルが入ってるので、そこへ松本隆とよく一緒に行ってましたね。
権八:僕らはまわりに米兵がいると聞いてもピンとこないというか、映画の中でしかわからないじゃないですか。でも、細野さんは埼玉のアメリカ村にお住まいだったんですよね。そちらの文化にシンパシーがあるというか。
細野:生まれた時代が占領下ですからね。東京はGHQが陣取ってたところで、日比谷に行けばGHQの本部があって、MPという憲兵みたいな兵隊がいっぱいいて。僕は母親におぶられて、たぶん日比谷を歩いてたんでしょうね。米兵が2人来て、僕に何かくれたんですけど怖かった。異形の人達というか、見慣れない人達だから。当時は日本人をアメリカナイズするというGHQの政策もあるわけ。それに洗脳されてね。
権八:ご自身で言うと(笑)。
細野:本当にそう思うの。逃れられない。
中村:最近でいうと、『この世界の片隅に』のような戦争をテーマにした映画もあって、米兵の残り物のごはんがこんなにおいしいなんて、とポジティブな文脈で語られることも多いですよね。意外とハッピーだったんだろうなと思います。
細野:そうですよ、開放感がまずあるね。僕は戦争を知らないけど、父親から戦争の話を聞いてましたから、子どもながらにつくづく戦争が終わってから生まれてよかったと思いましたもん。父親は南方に行ってマラリアにかかったりしているから、いろいろな話を聞かされました。本当に平和でよかったと、みんなそう思ってたんじゃないかな。
権八:細野さんは米軍関係の日本駐在アメリカ人向けラジオをずっと聴いてたと。
細野:これは大事なんですよ。ラジオデイズと言ってもいいんですけど、ラジオが音楽を全部教えてくれたんです。当時はレコードなんか出てないしね。今は名前変わったけど、FEN、ファーイーストネットワークという放送局があって、アメリカで流行ってるものを同時に聞けてね。アメリカのトップ20が聞けるわけですよ。
澤本:そうか、本土と同じものが。
細野:そう。たとえばスピルバーグなんていう監督は僕と同世代ですよ。スピルバーグの映画にかかってる音楽と僕が知ってる音楽が全部同じなんです。同時体験をしているという、へんてこりんな気分になりますけどね。